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駿府で元服・結婚、そして初陣へ(1555-59年)

元服して "元信" と称す

弘治元年(1555年)3月、14歳になった竹千代(のちの家康)は元服し、主君の今川義元から「元」の一字をもらい受けて松平次郎三郎元信となった。

このときの元服の式は駿府今川館で行なわれ、加冠は義元、理髪は今川一門の関口親永が務めている。また、義元からは大小刀を与えられている。

ところで通常の元服の年の目安は一応15歳だといわれており、竹千代の元服時期についても以下のように15歳説(弘治2年)をとっている史料もある。

  • 弘治元年説:『松平記』『三岡記』『朝野旧聞裒藁』
  • 弘治2年説:『武徳編年集成』『武徳大成記』『三河記』『創業記考異』

元服を済ませた元信(=家康)は翌弘治2年(1556年)、亡き父・広忠の法要のために久々に岡崎に帰り、そのついでに岡崎領内を巡検したという(『家忠日記増補』『創業記考異』)。
『武徳編年集成』によれば、岡崎城は義元の家臣が入っていたが、このとき元信の老臣・鳥居忠吉が元信の手をひいて蔵へ案内し、ひそかに蓄えていた米や銭をみせたという。そして、岡崎城へ帰参できた際には松平氏再興のためにつかってほしい旨を伝え、元信を感激させたという。

同年には元信の初見となる発給文書がみられており、その内容は三河の大仙寺に寺領を寄進して禁制を下したものである(『大仙寺文書』)。

家康が元服した時の逸話

--【駿府】--

今川義元

竹千代よ。今年から松平家の本拠であった三河・岡崎城へ移り、統治を行ないなさい。

今川義元アイコン
徳川家康アイコン

家康

幼少のときより今日まで、いろいろお世話になり、また、岡崎城に帰参するようにとのこと、一方ならぬご厚恩でございます。

お指図どおり、岡崎に帰りますが、まだ若年の身でございますので二の丸におり、本丸にはこれまでどおり、山田新左衛門をそのまま置かれ、諸事意見を聞きたいと存じます。

今川義元

元信はとても若輩とは思えん。生来分別厚き人物で成長すればどのような者になるのか計り知れん。

氏真(=義元の子)のためにはよき味方だと思うと、わしも満足じゃ。亡き広忠(=家康の父)が生きておったらさぞ喜ばれるだろうに。

今川義元アイコン

といい、涙を浮かべたという。
また、これを伝え聞いた上杉謙信は・・

上杉謙信

元信は15にしてこのような智恵があるということは、文字通り、”後世可畏”だ。将来稀代の良将となるであろう。 ※後世可畏:後から来る若年者は、無限の可能性を秘めていて侮りがたい存在であるという意。

上杉謙信アイコン

といい、感歎したという。

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結婚

続いて元信は翌弘治3年(1557年)正月15日に駿府今川館で関口親永の娘(=瀬名姫)を娶った。彼女はのちの築山殿である。

関口親永は今川氏の一門である瀬名氏貞の二男であり、義元の家臣として駿河国・持船城主を務めたという。また、親永の妻は義元の妹(養妹)といわれていることから、瀬名姫は義元の姪にあたる。

この結婚は今川義元の意向で結ばれたものであり、義元が松平氏を利用するために今川一門の娘を押しつけた政略結婚であった。

ところで元信は16歳であったが、瀬名姫の年齢はどうであろうか。
元信と同じ年とも、3~4つ年上ともいわれているが、定かではない。瀬名姫は自分が義元の姪であることや、元信が人質という立場であったことから、元信を見下していたようである。

2人の間には、2年後に嫡男信康が、3年後に長女亀姫が誕生している。

初陣

元服・結婚と続き、さらには翌永禄元年(1558年)2月に初陣を果たす。三河国加茂郡寺部城主・鈴木重辰が今川から離反して織田信長に通じたのである。

まもなく元信は義元の命令を受けて岡崎に入ると、岡崎衆を率いてこれを攻めた。このとき元信の初陣ということで岡崎衆は勇ましく戦ったといい(『三河物語』『松平記』ほか)、元信は「周囲の敵城から後詰がくればのちのち問題となりかねないため、先に枝葉を刈ってから根を断つべし」といって寺部城下に放火し、周辺の広瀬・挙母・梅坪・伊保などを攻め、敵を敗走させた。このような立派な軍令指揮と知略で老臣らを感心させたという。

ちなみにこのあまりにも見事な初陣ぶりは、のちの家康影武者説にもつながっている。また、この初陣に望む際には伊賀八幡宮(愛知県岡崎市伊賀町東郷中)に祈願したといい、この勝利を得て、家康は以後の大きな合戦の際には参詣するのを吉例としたようである。

戦後は義元から賞として松平旧領のうち山中三百貫文の地が返付され、腰刀が贈られたという(『徳川実紀』)。元信17歳のときであった。

ところで、同年7月には発給文書の署名が”元康”となっているのが確認できる。つまり、前年からこの時期までに元信から元康へ改名したということである。
改名が初陣の前か後かはわからないが、改名理由は祖父清康の武名にあやかって、"康"の一字をとったものである。


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