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大高城兵糧入れと岡崎帰参(1560年)

尾張への大行軍

永禄3年(1560年)、このころの今川義元は既に駿河・遠江・三河を領し、毎年のように検地も行なうなど財政基盤を整えて軍事力を強化していた。また、北の武田信玄や東の北条氏康と三国同盟を締結しており、向かう先は西に絞られていたのである。

そして、義元は尾張・織田信長に対する侵攻を計画し、ついに運命の日が訪れる・・・。誰もが知っている、あの桶狭間の戦いである。

同年5月10日、元康(=家康)は今川軍の先発隊として駿府を出発した。元康は三河の将で松平氏の拠点・岡崎城も尾張に近いため、先鋒を命じられるのは仕方なかったと思われる。
このとき元康は千余の軍勢を率いたといい、一方義元本陣は12日に駿府を出発している。

今川軍は総勢2万5千ともいわれる大軍であったので時間差で出発、まさに大行軍であった。その大行軍の過程はおおむね、以下のとおりである。

  • 10日、元康ら先発隊が駿府今川館から出発。
  • 12日、先発隊の先頭は掛川に着陣、一方で義元本隊が2万余の軍勢で駿府今川館を出発して藤枝に着陣。
  • 13日、先発隊の先頭は引馬手前の池田に、義元本隊は掛川に着陣。
  • 14日、一旦池田で勢揃いして先陣・本隊を決める。その後、義元本隊は引馬に着陣。先陣は2手に分かれて進軍。
  • 15日、先陣は吉田の先の赤坂・御油・国府・小坂井・下地の五井に、義元本隊は吉田に着陣。
  • 16日、先陣は岡崎の先の知立(碧海郡知立町)・牛田(知立町)・今村(安城市)・宇頭(岡崎市)・矢作に、義元本隊は岡崎に着陣。
  • 17日、元康ら先陣は尾張国へ入り、義元本隊は知立に着陣。
  • 18日、義元本隊が沓掛城(同豊明市)に入り、夜には軍議を開いて攻撃部署を定める。

今川行軍マップ(桶狭間へ向けて)

  • 1.駿府(駿河)
  • 2.藤枝(駿河)
  • 3.掛川(遠江)
  • 4.引馬(遠江)
  • 5.吉田(三河)
  • 6.岡崎(三河)
  • 7.知立(三河)
  • 8.沓掛城(尾張)

母・於大の方との再会

元康はこの大行軍の最中、3歳のころに生き別れた母・於大の方に会うため、ひそかに彼女の再嫁先の尾張国阿久居の久松俊勝の館を訪ねたという(『徳川実紀』)。
俊勝は水野信元の家臣、すなわち織田方に属していたが、このとき2人の対面を許して、自分と於大の方の3人の子(康元、康俊、定勝)を元康に引き合わせたという。 この3人は元康の異父兄弟にあたる。元康はのちに三河国の統一を果たした際にはこの3人の弟も呼び寄せてともに働きたいと於大の方に伝えたという。

この母子対面は17日とされているが定かではない。

今川軍の布陣

18日の夜、今川義元が沓掛城に到着すると、軍議を開いて各隊の任務を以下のように定めた。

  • 松平元康(家康):丸根砦の攻撃隊
  • 朝比奈泰朝   :鷲津砦の攻撃隊
  • 阿部元信    :鳴海城の守備
  • 鵜殿長助長照  :大高城の守備
  • 義元本隊    :清須方面への進撃を計画
  • 浅井政敏    :沓掛城の守備

桶狭間マップ

  • 1.沓掛城
  • 2.鳴海城
  • 3.大高城
  • 4.桶狭間山(義元本陣)
  • A.鷲津砦
  • B.丸根砦
  • C.熱田

元康はやはり先鋒として丸根砦攻めを任されることになった。
丸根砦は織田信長が今川の尾張国侵攻の阻止、そして大高城と鳴海城の間を遮断するため、前年に鷲津砦とともに築かれ、信長家臣の佐久間大学盛重が守備する砦である。

大高城の兵糧入れ

実はこの軍議で元康は、丸根砦攻めと同時に鵜殿長照の守る大高城へ兵糧を運ぶという任務も命じられていた。

大高城は上記の地図でもわかるように熱田にも近く、織田陣営に深く入りこんだ今川方最前線の拠点であった。ここに兵糧を入れるのは至難であり、松平家臣の中には今川の加勢を求める声もあったほどである。

しかし、元康はこうした意見を退け、同日夜の間に奇計をもって兵糧入れを無事にやりとげた(『信長公記』『神君御年譜』)。この決死の大高城兵糧入れは、後世にも語り継がれる武功となったのである。

ところで、この兵糧入れの時期に関しては史料によって多くの食い違いがある。以下のように4つの年次が存在している。

  • 弘治3年(1557年)説:『伊束法師物語』
  • 永禄元年(1558年)説:『三河物語』
  • 永禄2年(1559年)説:『家忠日記増補』『武徳大成記』『落穂集』など
  • 永禄3年(1560年)説:『信長公記』『甫庵信長記』『松平記』『総見記』など

識者からみて弘治3年(1557年)と永禄元年(1558年)説は時期が早すぎるのもあり、信憑性が低いとされている。残りの永禄2年(1559年)と永禄3年(1560年)説が有力視されているようだが、結局のところ定かではないようである。

ちなみに当記事では永禄3年(1560年)説とした。

桶狭間での決戦と岡崎城への帰参

そして翌19日早朝、義元本隊は西に向かって出発し、今川軍の一斉攻撃を命じて桶狭間の決戦がはじまった。

元康は作戦どおり、早暁に佐久間盛重の守備する丸根砦を攻め、これを苦戦しながらも陥落、一方の鷲津砦も朝比奈泰朝の攻撃によって陥落させた。
この知らせを聞いて義元は戦勝気分に酔いしれていたという(『信長公記』『伊束法師物語』『三河物語』)。

元康隊は幸運にも義元の命により、鵜殿長照と交替で大高城の守備にまわることになった。守備を命じられたのは、前日からの大高城兵糧入れで不眠不休であったことや、丸根砦攻めで功を立てたことによる。
以後、元康らは城で休息をとり、のちに義元本隊5000もの兵が勝利して戻ってくることを想定して迎える準備をしていたが、義元本隊は一向にこなかった。

既に義元は織田信長の奇襲を受けて死んでいた。午後2時ごろのことである
元康は大高城に置かれたことで命拾いし、同じく先鋒を務めた井伊直盛(討死)らとの命運が分かれたのであった。

主君を討たれた今川軍はちりぢりになって退却を開始しており、義元討死の報が元康に届いたのは夕刻になってからであった。
叔父の水野信元の使者・浅井六之助が義元の敗死と同時にすぐに大高城を出るように告げてきたのである。

しかし元康は、信元は叔父とはいえども織田に属することから報告を信用せず、義元の死の確証を得るまでは城内に留まっていたといい、確証を得てから軍を引き上げて岡崎の大樹寺に向かった。
このとき、退路の途中で織田方の兵や落ち武者狩りに遭遇したが、先導させていた使者の浅井六之助がその都度「水野下野守信元カ使浅井六之助」と名乗りをあげたために襲撃されることもなく、岡崎の大樹寺に入ることができたという。(『家忠日記増補』『三河物語』ほか)

到着は同日深夜のことであった。

元康は大樹寺のすぐ近くにある岡崎城へ帰参することをもくろんでいた。岡崎城には今川家臣が入っていたが、元康は義元の死で岡崎城の今川兵もやがて撤退するだろうと考えていたようである。
そしてその思惑は的中し、ついに23日に岡崎入城を果たしたのであった。

このとき元康は19歳

6歳の頃より織田、8歳になってからは今川の人質となっていた元康の約14年間もの長い人質生活がここにようやく終ったのである。

岡崎入城における逸話

※『名将言行録』より

家康の守備する大高城に、織田方の刈屋城主・水野信元の使者・浅井道忠がやってきた。

-- 【尾張大高城】 --

浅井六之助道忠

申し上げます!桶狭間で義元殿が命を落とされ、今川方の城々はみな、開城を余儀なくされて退却しました。早く岡崎城へお帰り下さい!

家来アイコン

水野信元は織田家臣であったが、家康の叔父であったので、こうして使者を派遣してきたのである。三河の岡崎城は元々は家康の父・松平広忠の居城であったが、広忠亡き後は今川氏の城となっていた。

家康家臣アイコン

家康家臣ら

家臣A:殿!ここは急ぎ岡崎城へ戻るのがよろしいかと存じます。
家臣B:ささ、早くまいりましょう。

家康の近臣たちも、岡崎へ帰城することを進言するが、家康は、

家康アイコン

徳川家康

・・・。信元がわが母の兄弟であることは誰もが知っていることだが、今は敵同士。もしはかりごとによって、この城を明け渡して逃げ去ったと言われることがあったなら、弓矢を取る者の恥辱となり、後世の笑い草になるであろう。
六之助(=使者の浅井)を押しとどめておき、味方の知らせを待ち、そのあとに三河に帰るべきだ。

こう言って家康は二の丸から本丸に移り、軍備の配置を図った。

そして、その夜・・・

鳥居忠吉アイコン

鳥居忠吉

殿!よ、義元公がお討死なされましたー!

家康家臣の鳥居忠吉が家康の元に帰り、桶狭間での義元討死の報をしたのである。

家康アイコン

徳川家康

!!!
このうえは兵を返すことにしよう。しかし、夜は暗くて乱れる恐れがある・・。

そう言い、月が出るのを待ってから大高城を後にしたが、このとき、使者の浅井六之助に道案内をさせた。そして、三河の地鯉鮒(ちりふ)に着いた時、刈屋から討って出た一揆勢に遭遇。

浅井六之助道忠

水野下野守の使者・浅井六之助道忠が案内をしているところだ!

家来アイコン

六之助が大声で叫んだので、一揆勢は道を開いて、家康は難なく岡崎に到着することができたのであった。このときに殿(しんがり)をつとめたのは大久保忠俊であった。

翌日、岡崎城に入った家康は六之助を帰らせ、後日の証にと扇子を2つに裂いてその一方を手渡した。その扇子の骨は6本だったため、六之助は浅井家の家紋として長く伝えたという。

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