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信長と同盟し、今川から独立(1561-62年)

桶狭間以後の元康の動静

桶狭間の戦いの直後、元康は晴れて岡崎城に帰参した一方、駿府ではそれからまもなくの永禄3年(1560年)6月に元康長女・亀姫が誕生していた。前年には長男の松平信康が誕生していたので、築山殿との間に2人の子をもうけたことになる。

妻子はまだ駿府にあったにもかかわらず、元康は岡崎城に留まって人質生活に終止符をうち、駿府にはもどらなかった。

義元の後継者となった今川氏真に使者を遣わして弔合戦をすすめたが、氏真は一向に動かなかったという (『岩淵夜話』)
しばらくは三河の旧領回復のために織田方と交戦していたが、やがて元康は独立への動きをみせるようになる。

元康の岡崎城は織田領がすぐ隣にあったため、織田軍の脅威にさらされていたのである。
通説では、今川氏真が弔合戦をする気がなかったため、やむなく自立をはかったというが、実はそうでもなかったらしい。岡崎城に留まっていたことからも、もっと早い段階で独立をもくろんでいたというのである。

しばらくの間、元康は旗色を鮮明にはしていなかっだが、やがて転機が訪れる。

信長と和睦

永禄4年(1561年)になり、尾張の織田信長が使者を通して和睦を申し込んできた。その背景にはどうやら元康の叔父・水野信元が信長に働きかけたようであった。

受け入れるか、断るか・・・・。いずれを選択しても以下のような恐れがあった。

  • 申込を断れば、信長軍が岡崎に攻め込んでくる恐れ。
  • 織田と和睦して今川と断交となれば、駿府の妻子に危害が及ぶ恐れ。

駿府には元康の妻子のほかにも、重臣らの妻子も多く人質にとられていたため、家臣の中には織田と手を結ぶことに難色を示す者もいた。しかし、元康は家臣らと相談の上で最終的に信長との和睦、すなわち独立を決意したのである。つまりは妻子を見捨てたということでもある。

『武徳編年集成』によると、水野信元は信長に対して元康の武勇と器量の大きさを伝え、これを味方にするように説得し、一方で元康のもとにも赴いて今川家の松平家に対する非情な行為の数々を語って、元康に信長と和睦するよう説得して承諾させたという。
この話を聞いて喜んだ信長が滝川一益を使者として送り、松平家臣の石川数正と交渉をさせて両家の合意を固めた、という。

ちなみに和睦協定の内容は、歴史家の研究で「領域の確定、戦線協定、攻守同盟」の3つの可能性が指摘されているが、現在は「領域の確定」の一つだけが有力なようである。また、一連の和睦の過程で信長と元康の対面はなく、使者の行き来だけだったようである。

今川との断交

信長と元康の和睦を知った今川氏真が激怒したのはいうまでもないが、元康は「織田と和睦したのは三河国を織田から守り、今川氏の安泰をはかるため」などと欺き、氏真はこれを真に受けて怒りを収めたという。

元康と信長の和睦時期、今川との断交時期ははっきりしていない。ただ、元康と氏真との最初の戦いが同年4月頃であるため、 それより少し前の2月~3月頃と推定される。

同年は以下のように、元康と氏真との間で三河をめぐる戦いが繰り広げられた。

  • 3or4月:宝飯郡牛久保(愛知県豊川市)攻め。板倉重定を攻めた。
  • 8月:三河長沢城の糟屋善兵衛攻め(『松平記』『三河物語』)
  • 9月:三河東条城の吉良義昭攻め(『松平記』『三河物語』)

元康はこれらの抗争で次々と勝利し、年内には西三河をほぼ制圧することに成功している。ちなみに氏真は裏切った元康について自らの文書で「松平蔵人逆心」とか「岡崎逆心」と表現している。

こうした元康と氏真の戦いは三河の国衆らに動揺をもたらし、今川から離反して元康に与する諸将が相次ぐようになる。『朝野旧聞哀藁』によると、氏真は配下の東三河の諸将らが離反した際には、吉田城内に置いてあった彼らの妻子を引きずりだして串刺しの刑にしたという。
このため元康は、駿府に人質とされている築山殿ら妻子を救出する必要に迫られるのであった。

妻子の救出

元康が妻子救出作戦を練ったのか、翌永禄5年(1562年)に早くもその機会が訪れた。

同年2月4日、元康は三河西郡城主・鵜殿長照を攻め、長照の子氏長と氏次の二人を生け捕ることに成功した。鵜殿長照の妻は今川義元の妹といわれ、今川氏真にとっては従兄弟にあたる重要な人物であったのである。
元康は人質交換を計って、家臣の石川数正を駿府に向かわせて氏真との交渉をさせた。氏真がこれにやむなく応じたことで妻・築山殿と子の信康・亀姫の3人を無事、岡崎城に戻すことができたのであった(『三河物語』ほか)。

ところで同年の正月に、元康が信長の居城・清洲城を訪れて同盟を正式に締結したという、いわゆる清洲同盟(清須同盟)がある。しかし、近年の研究ではこの会見は存在しなかったとの見方が強く、あえてここでは記載しないことにする。
ちなみに前年の和睦協定があったことは事実であり、これが同盟にあたるということである。

三河統一へ向けて

同年、続けて元康は三河統一に向け、氏真と東三河を巡ってたびたび交戦している。

  • 5月:富河の牧野氏を攻撃(「牧野文書」『武徳編年集成』)
  • 6月:今川方に一宮城を攻められ、救援に向かう(『松平記』『三河物語』)
  • 9月:今川方に御油を攻められ、これを救援して撃破(『松平記』『三河物語』)

一方で、この年には元康による所領安堵状の発給も目立っている。以下二つの文書は現存しているという。

  • 5月22日付:松平伊忠宛の本領安堵状(「松平島原文書」)
  • 8月6日付:松平康忠宛の所領安堵状(「三川古文書」)

今川家は桶狭間での敗戦や三河国衆の離反による兵力の減少などで弱体化がすすんでおり、元康は三河国の今川領を徐々に切り取っていったのである。


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