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三河一向一揆(1563-64年)

元康から家康へ

永禄6年(1563年)3月2日、織田信長との同盟強化のため、元康の嫡男・信康と信長の娘・徳姫が婚約することになった(『徳川幕府家譜』『神君御年譜』)。
2人は同じ年でこのときともに5歳であった。ちなみに実際の婚儀は4年後の永禄10年である。

同年7月6日には名を改め、"家康" と称したという(『家忠日記増補』『徳川幕府家譜』)。

発給文書の署名を確認すると、元康署名の文書は同年6月が最期となっており、家康署名の文書の初見は同年12月7日となっているため、時期的につじつまがあう。
なお、以下のように別史料では時期について異説もあるようだ。

  • 永禄4年説(『官本三河記』『御庫本三河記』)
  • 永禄5年説(『松平記』『徳川実紀』)

さて、この後まもなくして、家康の独立後における最初の大きな災難が襲いかかることになる。

家康の人生の三大危機のひとつ・三河一向一揆である。

三河一向一揆

一向一揆というのは、浄土真宗本願寺教団(一向宗)の門徒らが、権力に対して武力で抵抗する一揆のことであり、彼らは連帯感が強く、信長も手を焼いたのは有名である。

その一向一揆が同年9月、三河国内で勃発したのである。

発端はどこにあったのか?

ところで、なぜ三河国で一揆が勃発したのであろうか。

今川義元による三河支配のときは、一向宗寺院などの寺社勢力に対して比較的優遇措置がとられていた。それが家康が今川から独立して三河侵攻を進めていくと、措置がより厳しくなったことに原因があるようだ。

当時、三河は禅宗や浄土宗と並んで一向宗も盛んであり、三河三ヵ寺と呼ばれる一向宗の拠点があって信仰をあつめていた。

  • 碧海郡佐々木の上宮寺
  • 碧海郡野寺の本証寺
  • 額田郡針崎の勝鬘寺

そして事の発端は家康にあった。

家康は、家臣の上野城主・酒井忠尚が今川氏と内通した疑いがあるとし、佐崎城主・菅沼定顕に命じて上宮寺から籾を借りさせようとしたものの、これが拒絶されてしまった。このため、家康は上宮寺から無理矢理に兵糧を奪い取らせたというのである(『家忠日記増補』『参州一向宗乱記』)。

上宮寺は先に述べたとおり、一向衆の拠点である。これに怒った上宮寺が門徒や農民らに檄をとばして蜂起したのである。

なお、以下に異説もあげておく。

  • 野寺の本証寺に、酒井雅楽助正親が検断した(『三河物語』)
  • 佐々木の上宮寺境内の商人・鳥井浄心が屋敷前に新穀を置いていたところ、通りかかりの家康家臣がそれをふみ散らかした(『本願寺一揆記』「永禄一揆由来』)

反家康勢力と松平家臣の分裂

家康が一揆に手を焼いたのは、2つの大きな理由があった。

  1. 反家康勢力(主に三河豪族)の存在
  2. 一向衆門徒でもある家康家臣の存在

反家康勢力というのは、吉良義昭(東条城主)や荒川義広(幡豆郡八面城主)など親今川派といった三河の豪族である。彼らはこの一向一揆に乗じ、一揆方に加わって家康と戦っている。

また、家康の一族・家臣の中には一向衆門徒の者が多くおり、彼らは主君への忠誠心をとるか、教団への信仰心をとるかの二者択一に迫られた。

一揆に加担した者には本多正信・本多正重・松平家次・蜂屋半之丞貞次・渡辺守綱・酒井忠尚・夏目吉信などがいる。一方、家康に忠節を尽くした者には本多忠勝・石川家成・石川数正などがおり、彼らは改宗までして家康に味方している。

このように三河一向一揆は、松平家中の内紛や反家康勢力による一揆の利用なども背後にある複雑な構図であった。
三河碧海郡で勃発した一揆は幡豆郡・加茂郡・額田郡にも飛び火するなど、家康の地盤・西三河全土にも広がっていき、家康は独立後はじめて大きな危機を迎えることになったのである。

鎮圧へ

一揆方との戦いは各地で展開され、家康は連日のゲリラ的な一揆勢の攻撃と、主従が敵味方となって戦う事態に大いに悩まされた。戦いの経過については諸史料に差異が多く、混沌としているようである。

同年10月頃に家康は吉良義昭の三河東条城への攻撃を開始し、年末までには陥落させたという。

同年11月25日には、針崎の一揆が岡崎を攻めて家康と戦ったが、このとき一揆に加担した蜂屋貞次は、家康の姿をみると逃げたという(『松平記』『三河物語』)。
一向一揆が勃発したときの蜂屋貞次の苦悩が想像に難くない。

永禄7年(1564年)1月11日の上和田の戦いでは、家康が銃弾2発をうけたが、固い具足を纏っていたために命拾いしたという(『岡崎記』『松平忠勝記』)。

やがて家康方が優位に推移していったようであり、同年2月には一揆勢との和議の話が持ち上がり、月末頃に和議が成立したという(『武徳編年集成』『武徳大成記』など)。

戦後、家康は本多正信・松平家次ら帰順した家臣を許す一方、一向宗に対しては改宗をせまり、これを拒否すると寺を破却し、僧侶らを追放するという厳しい処分を下している。
なお、吉良義昭と荒川義広は上方に、酒井忠尚は和睦後も最期まで抵抗を続け、やがて敗れて駿河へ逃れている。また、本多正信も帰順後まもなく出奔している。

約半年間にもわたる三河一向一揆に苦しめられた家康であったが、これを鎮圧した結果、家臣らの結束は強まり、反家康勢力も三河国から駆逐することに成功したのである。


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