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信玄と密約し、遠江侵攻を開始(1567-68年)

三河国内では、永禄10年(1567年)5月27日に、かねてから婚約していた家康嫡男の信康と徳姫(信長娘)との婚儀が行なわれた(『神君御年譜』『家忠日記増補』ほか)。
2人はこのとき9歳であり、家康と織田信長の同盟関係をより強めるための政略結婚であったことはいうまでもない。

この2人の夫婦仲はよく、やがて2人の女児にもめぐまれたが、信康の母・築山殿の嫉妬によってのちに驚愕の事態が引き起こされることになる。

三河統一を成し遂げた家康は、次に遠江進出の機会をうかがっていたが、それは ”対外情勢の変化” といったところから転がり込んできた。

今川・武田の同盟破綻

過去に武田・今川・北条は姻戚関係となって三国同盟を結んでいたが、このころの武田と今川の間には大きな確執が生じていた
同年8月には今川氏真北条氏康と共謀し、海をもたない武田領への塩の輸送を停止している。つまり、この時点で武田と今川の同盟は破綻していたということになる。

破綻の原因は武田方にあった。

武田家では2年前、信長から婚姻を要請され、これに武田信玄が応じて同盟関係となったが、信長が今川氏の仇敵だったことにより、武田家中で信玄嫡男・武田義信とその重臣・飯富虎昌ら(いわゆる親今川派)がこれに反発して謀反を企てた。
これが信玄の知るところとなり、飯富虎昌は処刑され、義信も廃嫡されて幽閉されるという事件があったのである。

残された義信の正室、すなわち氏真の妹・嶺松院は離縁となり、しばらくは甲斐に留まっていたというが、武田と今川の同盟破綻となってまもなく、幽閉中の義信は死没し、その後、嶺松院は駿府に帰国したという。

この一連の同盟破綻に関し、今川氏真はなにもしていなかったわけではない。
武田と同盟破綻する前からそれを見越し、越後の上杉謙信に通じて交渉を重ねていたのである。

信長、足利義秋を奉じて上洛す

ところで、家康と同盟関係にある織田信長はどのような状況だったのであろうか。

同年に信長は、長きにわたって交戦してきた強敵の美濃斎藤氏を倒し、美濃を平定して天下布武を掲げ、本格的に天下統一を目指す宣言をしている。
そして翌年には足利義秋を奉じて上洛をはたすことになるが、ここで少し、のちに将軍となる義秋について触れておこう。

助力を要請する義秋

このころ、足利義秋は越前国にいた。

彼は2年前に松永久秀や三好三人衆らによって暗殺された13代将軍・足利義輝の弟であった。そのとき命からがら京から脱出し、その後は自らが将軍になって室町幕府を再興することを宣言していた。義秋は朝倉義景や上杉謙信ら諸大名に上洛への助力を求めていたことで越前国に滞在中だったのである。

しかし、義景は一向に動こうとせず、一方の謙信も武田信玄との戦いで上洛する余裕はなかった。

こうした状況から義秋は、翌永禄11年(1568年)に "義昭" に改名すると、7月には信長を頼ってきたのである。

上洛戦と幕府の再興

これに対し、信長は義昭を迎えて上洛することを決意した。

ここで信長と信玄の利害が一致して和議を結んでいる。信長としては信玄に上洛の邪魔をさせないため、信玄に今川攻め(駿河侵攻)を勧めたという。

こうして同年9月、信長は足利義秋を奉じて岐阜を出発し、4万とも6万ともいわれる軍勢を率いて上洛を果たした。

家康はこのとき信長からの出兵依頼により、松平信一率いる2千の軍勢を派遣して上洛軍の先鋒として従軍させている。家康自身は参加していないものの、派遣した兵は腕の立つ精鋭部隊であったという(『松平記』)。
ちなみに上洛阻止のために立ちはだかった六角承禎との戦いでは、松平信一の隊が一番乗りの功をたて、のちに信長から感状を受けている。

そして翌10月に足利義昭は晴れて15代将軍となり、念願の室町幕府の再興となったのであった。

駿河・遠江侵攻

そして家康に遠江進出の絶好の機会が訪れた。同年12月、ついに信玄が駿河侵攻を開始したのである。

家康と信玄が事前に密約か?

ここで駿河侵攻に至るまでの流れをまとめておこう。

  1. 今川・武田・北条はそれぞれ姻戚関係にあって同盟を結んでいた(三国同盟)。
  2. 信長と信玄が同盟締結したことで、武田と今川の関係に緊張が走る。
  3. 密かに氏真は上杉謙信と通じ、信玄との戦いに備える。
  4. 信玄の嫡子・武田義信が廃嫡されて死没する。
  5. 今川・武田間の姻戚関係が解消され、同盟破棄となる。
  6. 今川・上杉間の密約が信玄に知れる。
  7. 信長と信玄の間に、信長=上洛、信玄=駿河侵攻、という利害が一致する。

こうして信玄は駿河侵攻をはじめるわけであるが、これに呼応する形で家康もまもなくして軍事行動を起こしている。

それは信玄と家康との間で事前に大井川を境として、信玄=駿河、家康=遠江を切り取り次第に領有するという密約があったからだという。史実かどうか定かでないが、その後の展開はほぼ密約どおりとなっているのである。

今川を攻めるとなると、今川と同盟関係にある北条が援軍を派遣してくる事は容易に想定できた。信玄は信長を通じて家康と接触し、上記のような密約を交わした可能性は極めて高いとおもわれる。

駿府陥落と遠江侵攻の開始

では実際に両軍の動きをざっくりみてみよう。

  • 12月6日:信玄、甲府を出発
  • 12日:信玄、駿河国へ侵入。北条氏政が小田原を出発。
    家康、井伊谷三人衆を調略、知行地を安堵
  • 13日:信玄、今川の本拠地・駿府に攻め入る。駿府今川館は陥落し、氏真は掛川城へ敗走。
    同日に家康が遠江へ向けて出発。
  • 15日:家康、井伊谷三人衆を案内役として遠江井伊谷に到着
  • 18日:家康、引馬城に入城。一方で武田の別働隊が遠江に侵入して見付に至り、徳川勢と交戦し、その後は引馬へ向かう。
  • 19日:家康、久野宗能に命じて天竜川に船橋を架けさせる
  • 20日:家康、掛川城近くへ。また、匂坂城の匂坂吉政を知行地安堵
  • 22日:信玄が掛川城攻めを家康に要請、すれ違いで同日に家康が信玄に抗議。
  • 26日:家康、二俣城の鵜殿氏長を調略、知行地安堵
  • 27日:家康、掛川城を包囲

上記をみると、信玄が駿府を占領した日には、家康も軍事行動を開始したことがわかる。

徳川方は「井伊谷三人衆」と呼ばれる菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の3人を道案内として15日には遠江国の井伊谷を占領すると、その後は周辺の今川方部将に調略をしかけ、次々と配下におさめることに成功しているのである。
なお、家康は井伊谷三人衆に対し、出陣前日となる12月12日付けで起請文を与え、井伊谷をはじめとした知行地を安堵している。

 もっと詳しく

信玄の明らかな密約違反か?

こうした中、18日には秋山信友率いる武田の別働隊が遠江に侵入して徳川軍と交戦する事態が起きている。これは一般に今川領の割譲の約束があったにもかかわらず、信玄が意図的に攻め込んだという見方が有力のようである。
家康はこれに対して22日付けの書状ですぐに抗議したというが、すれ違いで同日に信玄から重臣・朝比奈泰朝の守る掛川城を攻めるように要請されている。

一方の氏真は、その掛川城へ敗走したが、家康もすぐさま掛川城攻めにむかい、27日には同城を包囲しているのである。

氏真の籠もる掛川城を本格的に攻撃するのは翌年正月からとなり、調略も引き続き行なって犬居城の天野藤秀・高天神城の小笠原氏助ほか、多くの将を帰順させることになるのである。


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