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掛川城を攻囲し、遠江平定へ(1569年)

掛川城の攻囲

信玄の密約違反で不和に

家康は昨年末に密約違反として抗議を入れていたが、年が明けた永禄12年(1569年)の正月早々、武田信玄から弁明の書状が届き、その内容は "秋山信友率いる武田兵を遠江から駿府に退かせる" とのことであった。

この一件で家康と信玄の間に生じた軋轢を埋めるべく、信玄からの求めで2月には両者の間で起請文が取り交わされたようである。 しかし、家康の信玄に対する猜疑心は消えることはなく、このころから家康は上杉謙信や北条氏政との連携を模索するようになる。

このころの信玄だが、家康と不和になるだけでなく、今川と同盟関係にある北条氏政をも敵に回し、北条軍に退路を封鎖されて駿府に閉じ込めらるという窮地に陥っていた。

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掛川城を陥落できず・・

一方で家康は、今川氏真の籠城する掛川城への本格的な攻撃を開始しており、それと同時に今川諸将への調略もすすめていた。
しかし、結果的に掛川城を陥落させることができず、和睦への道を探ることになる。

以下は和睦交渉に至るまでの過程を諸史料に沿って簡潔にまとめたものである。

  • 2月16日:徳川方が掛川城の周囲に砦を築き、攻撃態勢を整える(『松平記』)
  • 17日:家康自身も出馬し、天王山に陣を構える
  • 18日:家康、上杉謙信の重臣・河田長親宛てに書状(返書)を送る
  • 20日:掛川城天王寺で交戦
  • 21日:天王小路で交戦
  • 23日:掛川城天王山で交戦
  • 28日:掛川城天王山で交戦(『北条記』)
  • 3月5日:本多忠勝・松平伊忠を先陣として掛川城攻めを行う

上記のうち、要所だけをみていこう。

まずは家康が2月18日に上杉氏に送った返書である。

このとき家康は、謙信に「遠江への出陣と遠江の諸将の多くを配下に組み入れ、掛川城もまもなく落城する」旨を伝えているが、掛川攻めの現状は、今川方の堅固な守備に苦戦していたのであった。

次に戦いの行方だが、2月23日の戦いはかなり激戦だったといい、どちらが優勢だったのかは史料によって異なっているのでなんともいえない。また、3月5日に本多忠勝らが攻撃した際には、今川方を100人余りを討ち取ったものの、徳川方も60人余りの犠牲が出たというが、落城までには至らなかったようである。

今川滅亡と遠江の平定

思った以上に掛川城が堅固で力攻めが難しいと判断した家康は、今川氏真の元へ使者を送り、作戦を変更して和睦に舵をきる。ここでも和睦に至るまでの過程を以下にまとめた。

  • 3月8日:今川家臣・小倉勝久に対し、和睦を申し入れる(『松平記』)
  • 13日:上杉謙信から今川との和睦を促される(『静岡県史』)
  • 4月8日:犬居城の天野藤秀に対して起請文を与え、各地の知行の安堵を行なう
  • 4月12日:起請文で堀江城での在城を認める等、各地の知行の安堵を行なう
  • 5月6日:懸川城が無血開城となる

家康は和睦申し入れの際、以下の旨を伝えたという。

自分は今川義元に取り立てられた身だから、今川に敵意はない。遠江一国を自分が手に入れなければ、武田信玄の手に渡る。自分が手にいれれば、北条氏と協力して信玄を追い払い、駿府を今川に返すことができる(『松平記』)

氏真としては、既に武田に奪われた駿府が戻るという願ってもないことだったため、和談に応じることになった。

なお、駿府で北条方に封鎖されていた信玄は、4月24日に駿府を放棄・撤兵し、1回目の駿河侵攻は失敗に終わっている。

こうして家康は、今川方と交渉を重ねて今川諸将の知行の安堵などの起請文を交わし、和睦を成立させて5月6日に掛川城を開城させた。

氏真ら一行はその後、北条氏の兵に迎えられ、天竜川の河口・懸塚湊(磐田市)から船で17日には蒲原(静岡市清水区)に着き、 さらに大平城(沼津市)を経て伊豆国の戸倉に行って北条氏政の庇護をうけることになった。
23日には、今川氏の名跡が氏政の子・国王丸(のちの北条氏直)に譲られ、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡した。

これにより、北条氏は駿河国の今川領を事実上領有することになり、家康もまた、掛川城の開城後に石川家成を入れて守備させ、遠江一国をほぼ掌握することに成功したのである。

一方で対称的なのは駿府から撤退した武田信玄であり、得るものはなにもなかった。

信玄の反撃

家康は引き続き、同年6月に天方城の天方通興を攻め、また、飯田城も下すなどして遠江平定を進めていった。このころの家康は、遠江の今川方諸将に対し、頻繁に知行地の安堵を行なっている(『諸家文書纂』ほか)。

一方の信玄だが、このままで終わらなかった。

6月から信玄は武蔵・武蔵・伊豆など、北条領へ怒涛の反撃を行なっており、続く7月には、かねてから織田信長を通じて交渉していた上杉謙信との間に同盟(甲越和与)を成立させている。

さらに8月からは今度は上野国方面から北条領への侵略を開始し、上野→武蔵→相模へと南下し、10月には北条氏の本拠・小田原城を包囲するまでに至っているのである。
このとき、信玄は小田原城を陥落することはできなかったが、まもなく行なわれた撤退戦では北条方に大勝している。(三増峠の戦い)

この後に信玄は帰国するが、休む間もなく11月から再び駿河へ侵入すると、12月6日には蒲原城を攻略、13日には再び駿府を占領したのである。
奇しくも1年前のこの日も信玄が駿府占領した日であった。

なお、このころの家康は、武田と敵対関係になることを見越し、上杉謙信との接触を続けていたとみられる。


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