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「会津征伐」直江状と関ヶ原の幕開け
──慶長5年6-7月(1600年)

秀吉の死と家康の勢力拡大

慶長3年(1598年)豊臣秀吉の病状が悪化すると、幼子秀頼を五大老に託すべく遺言を残し、8月18日に亡くなった。ところが、秀吉の死の直後から徳川家康は豊臣家の掟を破って、大名家との婚姻を進めるなど不穏な動きがみられた。

慶長4年(1599年)に家康と並ぶ五大老の中心人物であった前田利家が病死すると、家康の行動はさらにエスカレートする。利家の子・利長や細川忠興に謀反の疑いがあるとして加賀征伐が企てられ、恭順する利長から母・芳春院を江戸に人質として取る。前田家の親戚であった忠興からは家康に誓紙が差し出されている。また、石田三成を支援していた利家の死によって、加藤清正福島正則ら七将による三成襲撃事件が起き、三成は佐和山に隠退させられる。 浅野長政は家康暗殺の噂を立てられ関東に蟄居。 大老の前田家と石田、浅野という二人の奉行が失脚しており、秀吉の残した五大老五奉行の制は崩れかけていた。

このような状況で慶長5年(1600年)におきたのが、会津に所領をもつ五大老の一人・上杉景勝の征伐(=会津征伐)である。

上杉征伐へ

上杉氏はもともと越後に基盤を持つ大名であったが、晩年の秀吉からの命令で会津への国替えが行われた。東北の伊達政宗と関東の家康への牽制が目的であったとされている。そして秀吉死後は、会津領内の整備を進める必要から帰国した景勝に対し、神指城の築城や牢人や武器を集めていることを家康に咎められて、謀反の疑いをかけられる。

上洛して釈明することを求める家康に対して、挑戦状ともとれる有名な直江状を送りつけたのはこの時のことである。現在では書状の追而書を中心に不自然な点が多く後世の創作との研究が進んでいるが、景勝が上洛せず領国の守りを固めていたのは事実だ。 そのため、慶長5年6月に豊臣家の名のもと家康による討伐が行われることになった。

家康は伏見城に鳥居元忠を残し、豊臣諸大名を率いて江戸に到着。徳川軍による白河口、伊達政宗による信夫口など、5つの方面から上杉領を攻めることが決められた。会津討伐はまさに時間の問題であった。

家康が小山まで進軍したとき、上方から石田三成が毛利輝元ら多くの大名を擁して挙兵したとの驚天動地の書状が届く。家康はすぐさま小山評定を開き、諸大名に上杉から討つか石田から討つか問いただしたところ、石田を討つべしとの声が圧倒的に多く、上杉への守りには宇都宮に子息秀忠を残し、東海道を駆け上がり慶長5年9月15日に関ケ原合戦を迎えたのは周知の事実である。

北の関ケ原とその後の上杉景勝

関ケ原合戦が1日で終わる運命になるとは露とも知らない上杉軍は、伊達・最上と交戦。特に直江兼続は山形にある最上方の畑谷城を落とし、長谷堂城を盛んに攻めていたが、西軍敗れるとの報が届き自国へ撤退。

翌慶長6年に景勝は上洛して家康のもとに参上すると、会津120万石から米沢30万石へと国替えになった。その後の景勝と兼続は、新田開発や殖産興業などに力を入れて領国経営に邁進。その後の上杉氏は大坂の陣にも徳川方の大名として参戦するなど、徳川家に対して恭順を貫き、景勝は元和9年に69年の生涯を閉じている。


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