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「小山評定」関ヶ原のターニングポイントとなった徳川方の軍議。このとき家康は?
──慶長5年7月25日(1600年)

関ヶ原までの経緯について

慶長3年(1598年)に天下人豊臣秀吉が死去して五大老が跡目の秀頼の補佐をする状態が続いた。しかし、朝鮮出兵で活躍した福島正則加藤清正が中心の武断派と石田三成増田長盛が中心の文治派との激しい対立が表面化して国内では暗雲が漂っていた。特に江戸250万石の大大名であり、また五大老の筆頭である徳川家康が秀吉の遺言を無視して仙台の有力大名伊達政宗と婚姻関係を結んでしまう有様となってしまう。

極め付けには五大老の一人でありその対立をなんとか収めようとした前田利家慶長4年(1599年)に死去。分裂は決定的なものとなった。翌慶長5年(1600年)に徳川家康は同じく五大老の一人でもある会津120万石の上杉景勝に謀反の疑いがあるために上洛を命令したが、上杉家は直江状を家康に叩きつけて上洛を拒否。この事に対して激怒した家康は会津征伐を決定し、同6月18日、9万もの大軍を用いて伏見城から会津へ進軍を開始した。しかしこの事は三成に対して挙兵させるチャンスとなってしまう。

家康か?それとも三成か?

家康は会津に向かって7月1日には領地の中心地である江戸に到着、同7日には伊達・最上などの奥州の大名に出陣を命じ、21日に江戸を出発する事を伝える。一方、大坂の方では毛利輝元が19日に大坂城に入城して準備が整い、三成が挙兵。徳川家の重要拠点である伏見城に攻撃を開始。伏見城の戦いが起こった。

江戸の方では三成が挙兵した知らせが到達して24日に下野国小山で軍議を行った。これがいわゆる小山評定である。

家康は諸大名に対して「おのおの方の妻子は、大坂に人質にとられておるゆえ、さぞ心配でござろう。されば、これより速やかにこの陣を去り、大坂に舞い戻って治部(三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方しようとも、わしはいささかもおのおのの行動を恨みに思わぬ。我らが領内においては、行軍の心配もいらぬ。心置きなく上坂いたされよ。」と述べ、三成につくか家康につくかを委ねた。 小山評定は会議みたいに相談してこれからを決めるというものではなく、どちらかといったら家康に従っている大名に対してこれからも家康に従ってくれるかを確認するものであった。

小山評定のその後

小山評定ののち、東軍は兵を大坂方面に転換し、9月13日には西軍の岐阜城を陥落させて決戦に備えていた。一方の三成は、伏見城の戦いで徳川方が善戦したことで遅れをとる事になり、岐阜城の救援に間に合わなかった。

同15日、大垣城付近の関ヶ原で決戦が開始された。結果は小山評定で決意した諸大名の頑張りもあり、わずか1日で東軍が勝利する。その後、上杉家・毛利家・宇喜多家を始めとした西軍についた大名を改易・減封して首謀者である石田三成は小西行長安国寺恵瓊といっしょに六条河原で斬首となった。一方で家康についた大名は殆どが石高を加増された。

関ヶ原以後の家康は周知のとおり、江戸で徳川幕府を成立させ、約265年の平和な時代を築くことになる。小山評定で家康に忠誠を誓った諸大名は、幕末の動乱まで生き残った者もいれば、福島正則のように領地を改易された者もいる。しかし、この小山評定が後々の日本の歴史のキーポイントになっていったという事は事実なのである。


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