丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「河田木曽川渡河・米野の戦い」信長の嫡孫・あの三法師が主役か!?
──慶長5年8月22日(1600年)

河田木曽川渡河の戦いと米野の戦いはいずれも関ヶ原の戦いの前哨戦である。

合戦の背景

関ヶ原の戦いは、秀吉死後、専横を極める徳川家康に反発する石田三成が、慶長5年(1600年)の7月に家康打倒の目的で西軍を旗揚げし、毛利輝元を総大将に担ぎ上げて、大谷吉継増田長盛長束正家といった諸大名を味方につけて大阪で挙兵したところにはじまる。

このとき、家康は上杉討伐(会津征伐)に向かっていたが、三成の挙兵を知って軍を引き返し、美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)の地で決戦をむかえることになるが、この決戦を前に各地で東軍と西軍による前哨戦も行なわれているのである。

家康は引き返す軍勢を中山道経由で向かう軍と東海道経由で向かう軍の2つに分け、西進した東軍は美濃国へと侵攻することを決定する。福島正則細川忠興が率いる軍勢1万6千は木曽川を渡って美濃国に入ると、西軍の竹ヶ鼻城を包囲攻撃した。(竹ヶ鼻城の戦い
一方、池田輝政、浅野幸長、山内一豊が率いる1万8千の軍は清洲城から北上して岐阜城を目指す。東軍のこうした動きを受けて、西軍に属する岐阜城の城主・織田秀信は、家臣の飯沼長資らに軍勢6500の兵を与えて、東軍の侵攻を木曽川で止めるように命令。 こうして始まるのが河田木曽川渡河の戦いである。

合戦の経過

岐阜城の城主・織田秀信(かつての三法師)は、東軍の木曽川渡河を阻止するために9千ともいわれる軍勢を分散して配置し、二重の防戦網を張った。秀信は米野村で東軍を撃破して、その後は残党狩りをするつもりだった。それに対し、同年8月22日の朝方、池田輝政ら率いる東軍は河田島から木曽川の渡河を開始。

西軍は鉄砲隊を並べて東軍を攻撃するも、東軍の大軍勢を前にして撃破するどころか大打撃を受けてしまい、東軍はそのまま中洲の小屋場島まで進み、それから対岸の米野村にまで進軍していった。それから、同日昼に東軍と西軍は再び米野村で対決することになる。 これが米野の戦いである。

だが、このときの合戦では西軍の二重の防戦網の策が裏目にでたようだ。東軍の兵力1万8千に対し、西軍は3千のみの布陣だったため、結果的にその日の夕方には西軍の敗北となり、生き残った兵士らは岐阜城への敗走を余儀なくされた。この戦いで秀信の家臣である飯沼長資は討死。このときに東軍が挙げた首は227、捕虜は50人だという。

なお、これら2つの戦いはどちらも同じ日に行われ、一連の流れの中で行なわれたものだが、実際に戦った場所が異なったためか、別々に合戦名が付けられているようだ。

その後

翌日には、そのまま押し寄せてきた東軍が岐阜城を攻囲。岐阜城は難攻不落の城という評判だったが、先の2つの戦いで兵士を大きく失っていたため、岐阜城はわずか1日であっさり陥落となるのであった。


 PAGE TOP