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「安濃津城の戦い」関ヶ原前哨戦!
──慶長5年8月24日(1600年)

背景

関ヶ原の戦いを目前に控えていた頃の伊勢国は、小大名が割拠する国であった。その伊勢国に所領を持っていた富田信高は家康の会津征伐の途中、石田三成率いる西軍が挙兵したことを知り、小山で行われた軍議でそのまま徳川家康率いる東軍に参加することに決める。しかし、自らの所領である伊勢国は三成が挙兵した京都に近かったこともあり、自領を制圧されることを恐れた信高は、同じ伊勢国の小大名で会津征伐に一緒に参加していた分部光嘉・古田重勝・稲葉道通らとともに伊勢へと帰り、西軍の迎撃を行う事を決意。一足早く東軍の本軍と別れて一路領国へと急いだ。

途中、西軍の九鬼嘉隆に捕捉されるという危機はあったものの、無事に領国にたどり着くことができた信高たち。しかし、三成軍は数万の兵を投入することが予想されたのに対し、信高の兵は小大名だったこともあり援軍を含めても2000人もいない程度。さらには家康に援軍を呼ぼうとも九鬼嘉隆に伊勢湾を封鎖され使者を派遣する事すら不可能とまさに四面楚歌の状況に陥ってしまう。 そしてついに慶長5年(1600年)8月23日、富田信高が立てこもっていた安濃津城に毛利秀元・吉川広家を主力とする3万の兵が襲来したのである。

血で血を洗う大激戦

安濃津城の戦いはこれまで伊勢国で行われた戦いの中でも激しい戦いの一つである。

8月24日、西軍は愛宕山を拠点にして安濃津城に攻撃を仕掛け、それに対して籠城側が大将である信高が自ら最前線に立って奮戦した。この戦いでともに信高と立てこもっていた分部光嘉は毛利家の家臣の宍戸元次と一騎打ちを行い双方重傷を負うほどの激しい戦いが城の各所で行われる。信高も味方の兵が一人二人と倒れ、ついに敵軍に囲まれてしまう。もはやこれまでと信高が意を決したその時一人の若武者が単騎で信高のもとに駆け付け信高を救ったのである。その若武者は信高の妻で夫を助けるために自ら鎧兜を着て出陣したのである。

さらに翌25日には信高自ら兵を率い城から打って出て敵軍に突撃、敵兵500人を討ち取る戦果をあげる。 しかし、兵力の劣勢は覆すことができず、翌26日に信高は木食応其を仲介にして西軍に降伏、戦いには負けたものの小大名の意地を十分に見せつけた戦いだった。

戦後

安濃津城開城後、富田信高は出家して高野山に上ることを条件に助命され、伊勢国の専修寺で剃髪して高野山へと向かった。 しかし、関ヶ原の本戦で徳川家康が勝利したことで信高と分部光嘉はこの戦いの功績を賞される形でそれぞれ加増の栄誉を受けることになった。しかし光嘉はこの時の戦いが元で1601年に死亡、彼の子孫が近江国大溝藩主家として幕末までその名を残すこととなった。

、一方信高は関ヶ原の戦い終了後領国の復興に力を注いだ後、1608年に伊予宇和島に転封され、10万石の大名となるのだが罪を犯して逃亡していた妻の甥の子をかくまったために1613年に改易され、その後は大名に復帰する事なく1633年に病死した。
なお、この改易はかくまった時期が改易された年より8年前のことであり近年では大久保長安事件に連座したというのが通説となっている。そして安濃津城は信高の後に入った藤堂高虎によって33万石を有する津藩の藩庁として栄えていくのである。


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