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「石垣原の戦い」関ヶ原前哨戦!
──慶長5年9月13日(1600年)

九州の関ヶ原!

関ヶ原の戦いは、全国の大名が徳川家康率いる東軍と石田三成(総大将は毛利輝元)率いる西軍に分かれて、関ヶ原(岐阜県)で起こった戦である。しかし、すべての大名が関ヶ原に集結したわけではなく、自分の領地にいて周辺国と戦っていた大名もいる。主な大名は、奥州(主に宮城県)の伊達政宗や越後(新潟県)の上杉景勝などである。 黒田如水も領地である九州の中津城に残っていた大名の一人だ。正確には、如水は既に息子の黒田長政に家督を譲り隠居していたため、留守居役であった。なお、黒田長政は、東軍として黒田軍の主力を率いて関ヶ原へ出陣している。九州の大名の多くは西軍に属し、主力軍が関ヶ原へ出陣しているため、黒田如水は手薄な内に九州を統一してしまおうと考えていたのである。主力軍がいないのは黒田家も一緒だったが、如水は蓄えた金銀で浪人を雇い、百姓なども加えて新たに軍を編成し、1600年9月に豊後国で侵攻したのだった。 豊後国はもともと、九州三強の一つであった大友氏が治めていた国だったが、大友家22代当主の大友義統が文禄の役(朝鮮出兵)の際の失態により、改易させられていたのである。幽閉状態にあった大友義統だが、秀吉の死によって自由の身になり、豊臣秀頼に仕えることになる。石田三成は、この大友義統を黒田如水の対抗策として豊後に出兵させるのである。

「九州平定」対「家名再興」

大友義統には、恩賞として豊後国を与えられることになっていたと言われている。つまり、大友氏にとって石垣原の戦いは、家名再興をかけた戦いでもあったのである。一方の黒田氏にとっても、九州平定がかかった大事な一戦でもあり、「九州平定」対「家名再興」と例えても過言ではないのだ。

豊後に上陸した大友義統は、旧家臣の集結を求め、旧大友家家臣の吉弘統幸、田原親賢、宗像鎮続なとが集った。吉弘統幸は一時、黒田家にも客将として滞在していた武将でもある。体制が整った大友軍は、吉弘統幸を大将としてまずは細川忠興の領地である杵築城に攻撃をしかける。細川忠興自身は、関ヶ原に出陣していたため、松井康之が城を守っていた。黒田軍は久野次左衛門や井上九郎右衛門を先遣隊として向かわせ、黒田如水自身も向かっている。9月13日、黒田・細川連合軍と大友軍が対決する石垣原の戦いが始まる。戦闘の序盤は、黒田軍の二番備や細川軍が到着していなかったため、大友軍が優勢で、久野次左衛門などが討ち死にし、黒田軍を圧倒することになる。しかし、二番備や細川軍の加勢により、形成は逆転し、吉弘統幸・宗像鎮統等、大友軍の主だった武将が戦死することとなった。石垣原の戦いは一日で終了し、大友義統は黒田如水に降伏することになるのである。なお、肥後国(熊本県)の加藤清正も黒田如水の救援のために、出陣していたが、戦場に到着するまでに戦闘が終結している。

九州平定まで手が届かず!

降伏した大友義統は助命されることになる。お家再興にはならなかったが、嫡男の大友義乗が徳川秀忠の近侍として仕えていたため、「大友」の名は残ることになった。なお、大友軍だった田原親賢は、石垣原の戦い前に客分として仕えていた中川秀成と共に太田一吉が守る臼杵城攻め(佐賀関の戦い)に参加し、戦死している。

戦闘に勝利した黒田軍は、九州平定のため進軍を再開することになる。大きな対抗勢力もなく、九州7カ国を治め、残り2カ国になったところで、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康から行軍停止の命令が届くのである。大軍での戦闘である関ヶ原の戦いは長期化すると見越し、その間に九州平定を考えていた黒田如水だったが、9月15日に開戦したその日になんとわずか半日で終結してしまったのだ。結局、勢力下においた領土を放棄し、自分の領地にひきあげることになる。しかし、黒田如水が西軍の勢力を削ったことや息子の黒田長政が関ヶ原の戦いで活躍したことにより、黒田家は中津18万石から筑前国福岡52万石に大幅に加増されることになる。 なお、黒田家が福岡に移った後は、同様に東軍に味方した細川忠興が入城することになった。その後は、小笠原長次、奥平昌成と領主が変わり、明治維新まで奥平氏が治めることになる。


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