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「白石城の戦い」家康の上杉討伐に呼応した政宗が侵攻!
──慶長5年7月24日(1600年)

合戦の背景

慶長3年(1598年)豊臣秀吉の死後、徳川家康が天下の覇権を狙って動きはじめると、一方で石田三成は豊臣家の存続のためにこれに反発するようになる。そして慶長5年(1600年)に入ると、両者の対立はますます激しくなり、衝突は避けられない情勢となっていった。

そのようななか、家康は足固めのために、会津120万石を領土とする上杉景勝を傘下に入れようと動き始めるが、景勝は正月の年賀に上洛しないばかりか、最上義光らを介して上杉の軍備増強の噂がもたらされるなど、謀反らしき動きが…。 そこで家康は景勝に上洛をうながして説明を求めたが、拒絶されてしまう。業を煮やした家康は上杉の謀反を大義名分として会津討伐へと向かうことになる。

会津は秀吉の奥州仕置によって、伊勢から会津へ移封された蒲生氏郷が支配し、伊達政宗を抑える役目を負っていた。そして蒲生氏郷の死後は、秀吉の命で上杉景勝が会津120万石を封じられていたのである。

一方、家康の会津討伐の号令とともに、家康派の伊達政宗がさっそく上杉領内の白石城へと向かって進軍を開始した。

合戦の経過

上杉討伐にあたり、信夫口からの進攻を家康から命じられた政宗は、陸奥国刈田郡に入ってその拠点の白石城を目指した。

白石城は、上杉家臣の甘粕景継が城代を務めていたが、このとき彼は景勝の命を受けて若松城に詰めており、代わりに甥の登坂勝乃がその代理として城を守備していた。かつては自領だったことから白石城を熟知している政宗は、一気に城の奪還を図った。

同年7月24日から攻撃を開始した政宗は、城下町や三の丸に火をかけ、翌25日の朝までに本丸を除く大部分を支配下に置く。城を守っていた登坂勝乃は勝ち目がないと悟って降伏しようとするが、徹底抗戦を叫ぶ鹿子田右衛門がこれに反対したため、田右衛門を謀殺して退けて伊達軍に投降したという。

戦後

政宗は奪還した白石城を叔父の石川昭光に任せ、自らは北目城に引き上げると、続いて家臣に命じて上杉方の川股城も攻略させている。これに対し、景勝の家老・直江兼続が白石城奪還のために兵を派遣したが、途中で政宗に味方する百姓らに襲われて失敗している。

一方、会津に向かっていた家康は、大阪での石田三成の挙兵を知って会津征伐を中断。小山評定(=下野国小山での軍議)を経て家康派の諸大名らが先に西へと転進し、8月以降は美濃・尾張などの各地で東軍と西軍の合戦が起こっている。そして迎えた9月15日には関ヶ原の地で決戦が勃発し、わずか1日で東軍の勝利という結末になった。

西軍の上杉軍は9月上旬より出羽国(山形県)に出陣し、東軍の最上・伊達の連合軍と激闘をしていたが、9月29日にようやく 関ヶ原で西軍が敗れた報告を受け、やむなく撤退となった(慶長出羽合戦)。
結果的に上杉軍は関ヶ原決戦に参加できなかったわけだが、景勝も西軍がわずか1日で敗退するとは夢にも思わなかったであろう。ただ、上杉家が関ヶ原の戦後処理として米沢藩に移封されたとはいえ、徳川の世において家系が途絶えなかったのは、直接関ケ原決戦に関わらなかったことが幸いしたのかもしれない。


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