丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

【名場面】家康、和睦に脅迫作戦か?冬の陣の密事2(1614年)

大阪冬の陣(1614年)の終盤、家康は大阪城を包囲して砲撃すると同時に、和睦交渉も進めていた。

これはその和睦に向けた家康の謀略の話である。
※『名将言行録』より

▼主な登場人物

  • <a href='http://sengoku-his.com/ieyasu'>徳川家康</a>アイコン

    徳川家康

  • 淀君(茶々)アイコン

    淀君(茶々)

  • 京極忠高の母アイコン

    京極忠高母


-- 慶長19年(1614年) --

家康は大阪城の攻略に1度目は調停をかけておいて、2度目に攻め落とそうと謀った。名城の大阪城でも長陣となれば必ず過ちがあると考えていた。

そして大阪城を堀り崩させようと、多くの坑夫(=採掘作業に従事する労働者)を集めようとしていた。

徳川家康アイコン

家康

近国の坑夫を集めよ!

こうして丹波国にいる坑夫を京都所司代の板倉勝重に集めさせることに決定した。

この命を聞いて板倉勝重は、丹波の坑夫だと城を堀り崩す術がないとして、代わりに遠くの甲州の坑夫を呼び寄せて色々とたずねた。

甲州の坑夫

ここよりも難しい堀でもたやすいことです。ましてこれくらいの城を堀り崩そうというのは簡単な事です。

坑夫アイコン

これに対して板倉勝重が "山の岸はともかく堀の深い水堀はそう簡単にいかないのでは?"と 疑問を投げかけると、甲州の坑夫はさらに言った。

甲州の坑夫

板で箱を作り、堀の底へそれを入れれば通ることもできますし、その箱のこしらえ方については特別の方法があります。

家来アイコン

こうして板倉勝重は檜の板を取り寄せて大工を集め、甲州の坑夫に作り方を指図させて箱をつくり、山のように積み上げたのであった。

そしてちょうどその頃、家康は豊臣家の縁者の線をたどり、京極忠高の母を使者として大阪城に派遣した。

-- 【大阪城内】にて --

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

本日は家康公の意をお伝えしに参りました。

淀君

どのようなことでしょう?

淀君(茶々)アイコン
京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

はい。将軍・秀忠公は気が強く、いま大阪城を堀り崩して豊臣家を滅ぼそうと、わざわざ甲州から坑夫を呼び寄せております。

淀君

!!!

淀君(茶々)アイコン
京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

武田信玄の時代に度々堀り崩した功者にたずねたところ、簡単に堀崩せるとのことだったので、秀忠公は諸大名に命じてその準備をしたようです。

淀君

そのような話を信用しろというのですか?

淀君(茶々)アイコン
京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

秀忠公が堀底を潜れる方法もあろうと言い、様々な材木を集めさせて山のように積み重ねたのはまことの事でございます。
家康公は「疑うようであらば、人を遣わせてご覧くだされ」 と申しておりました。

淀君

くっ!!

淀君(茶々)アイコン
京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

家康公はこれを色々と止めてはみたのですが、秀忠公が承知しなかったようで、「このままだと豊臣を攻め滅ぼすということになり、ひと方ならぬ心配だ」と案じておられました。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

家康公は「秀忠は秀頼公にこそ申し分はあっても孫娘の千姫にはなんの関係もなきこと。秀頼公が滅ぼされたならば、千姫もまた、滅びてしまうであろう」と。
そして「この年まで生きながらえていて、孫が理由なく滅んでいくのを目の前でみなければならぬとはなんとも致し方なきことだ」 と深く嘆き悲しんでおられました。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

家康公は「秀忠は秀頼の舅であるから、少し気に入らぬことがあっても婿分だということで堪忍してほしい。」と。そして「秀忠と秀頼が仲直りをするようにし、拙者の死後も2人が協力して天下が治まるように分別を働かせてほしい」と・・・。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

秀頼公も母公もそのようなお考えであれば、家康公も秀忠公に意見をして、孫を助けたいとのことでございます。

淀君

(このままでは秀頼も豊臣も危険かもしれぬ・・・)

・・・家康公のお気持ちはよくわかりました。そういう事であれば当方としてもこのまま戦を続けるわけにもいきませぬ。

淀君(茶々)アイコン

こうして思慮の浅い淀君は子・秀頼の身ばかりを案じ、調停にのってしまったのである。


 PAGE TOP