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徳川秀忠

家康三男でありながら、父の後継者として江戸幕府2代将軍となった徳川秀忠。

彼は天正7年(1579年)に家康が最も寵愛したという側室・お愛の方の子として浜松城で誕生した。
産まれてまもなく、長兄の信康とその母・築山殿が信長の命で処刑となってこの世を去るという衝撃の事件が起こっており、実はこれが生涯の転機であった。

秀忠は幼名を長丸といい、この誕生した年、もしくは天正13年(1585年)に青山忠成と内藤清成が守役として付けられている。

家康が秀吉に降った後の天正18年(1590年)には、秀忠は秀吉と初対面するために上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と婚約式をあげている。このとき秀吉の正妻・おねと親しくなり、以後に交流が続いたようである。

そしてその後まもなくはじまった小田原征伐では初陣を飾り、戦後には家康の関東移封にともなって武蔵国松山城一万石を与えられ、また、秀忠の年寄(家老)として酒井忠世が付けられた。なお、同年末には従四位下侍従に叙任されて元服し、秀吉から"秀"の字を拝領して秀忠に改名したとみられる。
秀忠12歳のときであった。

天正19年(1591年)には婚約者の小姫が亡くなり、翌年からはじまった朝鮮出兵では江戸に留まっている。その間に秀忠は14歳で中納言に任官して「江戸中納言」と呼ばれるようになり、たびたび上洛もしている。

文禄4年(1595年)には浅井長政の三女で秀吉の養女となっていた6つ年上の「お江」と再婚し、のちに多くの子女を儲けることになる。

秀吉死後、父・家康は天下取りに向けて禁止されていた諸大名との婚姻を進めていき、慶長5年(1600年)にはこれに反発する石田三成らと関ヶ原の戦いとなった。

秀忠は決戦の地に向けて別働隊として上方へ向かうが、その途中で石田方の真田昌幸と戦って翻弄され、決戦に間に合わないという失態を犯してしまうのである。秀忠は家康に面会を求めるも許されず、榊原康政ら家臣のとりなしによって数日後にようやく面会できたという。

そして戦後の論功行賞や戦後処理がひと段落してから、家康は重臣6人を集めて後継者決めを相談し、以下のように意見が分かれたという。

  • 家康二男・秀康:本多正信
  • 家康三男・秀忠:大久保忠隣、榊原康政
  • 家康四男・忠吉:井伊直政

秀忠の年寄(家老)であった大久保忠隣は「天下を治めるためには、文武兼備の秀忠がふさわしい」として、秀康を推す本多正信と論争になったが、自分の主張を譲らなかったという。家康は日を改め、後日6人を集めて後継者を秀忠に決定したという。

慶長6年(1601年)に権大納言へ昇進、続いて江戸幕府が成立した慶長8年(1603年)には家康が将軍となったことによって右近衛大将に任命され、元亀3年(1605年)には家康から将軍職を譲られて江戸幕府第2代征夷大将軍となった。

ところで、秀忠とお江との間には以下のように多くの子女が産まれている。

  • 慶長2年(1597年):長女・千姫。7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。
  • 慶長4年(1599年):二女・珠姫。3歳で前田家に嫁ぐ。
  • 慶長6年(1601年):三女・勝姫。11歳で従兄妹の松平忠直に嫁ぐ。
  • 慶長8年(1603年):四女・初姫。4歳で京極忠高に嫁ぐ。
  • 慶長9年(1604年):二男・竹千代。のちの3代将軍家光。
  • 慶長11年(1606年):三男・国松。のちの徳川忠長。
  • 慶長12年(1607年):五女・和姫。のちに後水尾天皇の女御となる。

上記のように子女の多くは、幕府を盤石なものにするための家康の婚姻戦略に利用されている。

慶長16年(1611年)には家康・秀忠父子は二条城で豊臣秀頼との会見を終えたが、成長した秀頼の立派な姿に危機感を抱くようになる。そして慶長19年(1614年)には方広寺鐘銘事件をきっかけにして家康・秀忠らは出陣して大阪冬の陣が勃発。
この戦いは一旦和睦となったが、秀忠は豊臣家を滅ぼすことを望んで和睦には反対だったようである。

慶長20年(1615年)に再び開戦した大阪夏の陣では、秀頼と淀殿を自害に追い込んで豊臣家を滅亡させて徳川の勝利となった。
長女の千姫は、豊臣滅亡の直前に敵将の大野治長による配慮でが無事に徳川方に返されているが、このとき秀忠は秀頼の妻でありながら大阪城から逃れたことを見苦しいとして、千姫としばらく対面しなかったという。

戦後、秀忠は諸大名を伏見城に集め、武家を統制するための法「武家諸法度」13箇条と、天皇や公家の役割などを規定した法「禁中並公家諸法度」を制定した。

家康死後には将軍親政を開始して、多くの外様大名の改易するなど大名統制を強化した。また、元和9年(1623年)に嫡男・家光に将軍職を譲った後も大御所として二元政治を行っており、寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社に対する統制を徹底し、武家政権の基礎を確立させた。

寛永9年(1632年)に薨去。


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