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酒井忠次

酒井忠次(さかい ただつぐ、1527-1596年)は徳川家康の家老で、家康第一の功臣として功績をたたえられ、徳川四天王筆頭・徳川十六神将筆頭とされる。

家康が今川義元のもとへ人質にだされた時から、これに付き従って仕え、家康が今川から独立を果たして三河国を統一したころには東三河の旗頭という、徳川家臣団トップクラスの重臣となった。
軍事・外交両面で才を発揮し、徳川家が秀吉に臣従するまでに多大な功績を残した忠次であったが、松平信康の切腹事件(1579年)では家康に弁明の使者を任されながらも信康を守れなかった。徳川家の関東移封(1590年)の際、長男・家次に与えられた知行の少なさに加増嘆願したが、信康切腹事件が尾を引いて加増は叶わなかったようである。

経歴

大永7年(1527年)、松平家に仕えた酒井忠親の二男として誕生。幼名は小平次と名乗り、 天文11年(1542年)頃に元服して "忠次" と称した。

確証はないが、酒井氏は松平氏の庶流であり、松平譜代の筆頭という由緒ある系統とされている。こうした関係から、忠次ははじめ、家康の父・松平広忠に仕え、広忠死後は家康に仕えるようになる。

天文18年(1549年)に家康が今川義元への人質として駿府に送られた際に、忠次はこれに同行している。このとき松平氏は今川家臣として再出発をしていたが、こうした中で忠次は松平老臣として尾張の織田信秀・信長父子と戦うなど功を重ねていく。

軍事・外交両面で著しい活躍

弘治元年(1555年)に三河・福谷城の城主となると、翌弘治2年(1556年)には攻め寄せてきた織田軍を撃退している(福谷城の戦い)。

このとき忠次は城外に出て奮戦し、織田方の将・柴田勝家を負傷させて撃退したという。また、この福谷城の戦いに関して「敵もよく戦ったが、三河衆は死力を尽くして強敵を撃退し、大きな成果を挙げた」として後世に徳川家が記録に残している。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは丸根砦攻撃隊として参加した。今川義元が討ち死にして家康が岡崎城に入城した後、忠次は松平家中で家康と家臣らとの間の文書における取次の奏者を務めている。

永禄5年(1562年)、尾張の織田信長から和睦の申し入れがされた時、酒井一族の宿老の1人・酒井忠尚は過去三代にわたる織田家と松平家の対立の歴史から和睦に反対したという。
しかし一方で、忠次は今川氏真と織田信長とを猫と虎に例え、織田と手を組むように進言し、清洲同盟の成立に至っている。

永禄6年(1563年)、三河一向一揆では家康方に味方して一揆軍と戦った。酒井氏の中でも一揆軍に与する者もいたが、忠次は家康への忠義を貫いている。

永禄7年(1564年)、忠次は松平政忠の正室であった碓井姫を自分の正室に迎えた。碓井姫は家康の祖父・松平清康の娘である。つまり家康の叔母を娶り、家康と姻戚関係となったのである。
同年、今川方であった三河国の吉田城を攻めて先鋒を務め、計略によって無血開城させた。この功で東三河の吉田城を与えられると同時に、東三河の旗頭となったのである。

ちなみに西三河の旗頭は石川家成であったが、永禄12年(1569年)には石川数正となる。

甲斐・武田との戦いでも重責を担う

永禄12年(1569年)の駿河侵攻において武田方との交渉役を担当している。元亀元年(1570年)の姉川の戦いには先鋒として参戦し、朝倉義景の陣を破る功をあげた。

元亀2年(1571年)、山県昌景・武田勝頼ら武田軍が忠次の居城・吉田城へ攻めてくるが、これを奮戦して撃退している。
しかし、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担ったが、この戦いでは徳川軍が大敗を喫しており、忠次も退却を余儀なくされた。

天正3年(1575年)、長篠の戦いでは別働隊として武田軍を背後から叩くべく、鳶ヶ巣山砦を強襲した。忠次はこの戦いで長篠城を救援するという第一の目的を果たし、さらに、設楽原の決戦に挑んだ武田軍本隊の退路を断つという極めて重要な役割を果たしている。

忠次が武田軍の背後をついて城を陥落させたことから、後に信長から「背に目を持つごとし」と称賛されたという。

天正7年(1579年)、家康の嫡男・松平信康の武田方内通疑惑の際には、忠次は大久保忠世とともに信長への弁明の使者として安土城へ赴いたが、信長からの問いに十分な弁明ができず、最終的に信康の切腹は免れなかった。

信長死後

天正10年(1582年)、本能寺の変の際、忠次はわずか数十名のお供の一人として家康に付き従い、堺を遊覧中であった。このとき三河に帰還するまでの危険な道のりを同行している。
帰国後は空白地帯となった武田旧領の甲斐・信濃・上野を領国化すべく戦った天正壬午の乱では信濃国の国人の懐柔などを行なっている。戦いは家康の娘を北条氏直に嫁いだことで徳川と北条の和睦で終結したが、翌天正11年(1583年)に家康の娘が北条氏・小田原城へ赴くとき、忠次がこれにお供し、北条氏と折衝を重ねたという。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、その端緒となった羽黒の戦いにおいて先鋒として森長可・池田恒興らを襲撃し、敗走させている。

天正13年(1585年)には同じ家老の石川数正が出奔、翌天正14年(1586年)、秀吉の懐柔によって家康が上洛し、徳川氏が豊臣政権下に降ったときには忠次は徳川家中で最高位の従四位下、左衛門督に任命された。このとき、秀吉から近江国内に1000石と京都に宅地を与えられたという。

隠居後

しかし、天正16年(1588年)には眼を患って長男・家次に家督を譲って隠居した。

天正18年(1590年)に行なわれた小田原征伐のときの徳川家臣団の主力は本多忠勝・榊原康政・井伊直政らであり、その構成は大きく様変わりしていたようである。

戦後、家康の関東移封後に忠次の長男・家次には下総国臼井3万7千石が与えられたが、井伊直政は12万石、本多忠勝、榊原康政は10万石、と家次を大きく上回る評価を得ていた。そして忠次は長男・家次の知行の少なさに家康に加増嘆願したという。

これに対して家康は「おまえも子がかわいいか?」と忠次に返答し、かつて家康嫡男の信康が死罪を免れなかったとき、忠次が弁護しなかったことを暗になじられたという。

慶長元年(1596年)に京都・桜井屋敷で死去。享年70であった。

略年表

  • 大永7年(1527年)、誕生
  • 天文11年(1542年)頃、元服、忠次と名乗る
  • 天文18年(1549年)、今川義元の人質として駿府に送られた家康にお供する。
  • 弘治元年(1555年)、福谷城の城主になる
  • 弘治2年(1556年)、福谷城の戦いで織田の軍勢を撃破する
  • 永禄3年(1560年)、今川方として桶狭間の戦いに従軍
  • 永禄5年(1562年)、清洲同盟では家康に同盟する旨を進言。家康の独立後に家老となる
  • 永禄6年(1563年)、三河一向一揆で家康に味方する
  • 永禄7年(1564年)、碓井姫を正室に娶る。同年、吉田城攻めで先鋒を務め、その功で吉田城を拝領して東三河の旗頭に任命される
  • 永禄12年(1569年)、駿河侵攻に従軍し、武田氏との取次を担う
  • 元亀元年(1570年)、姉川の戦いに従軍し、朝倉義景軍を撃破する功をあげる
  • 元亀2年(1571年)、武田軍による吉田城攻めに対処し、これを撃退する
  • 元亀3年(1573年)、三方ヶ原の戦いでは右翼を担う
  • 天正3年(1575年)、長篠の戦いに参戦。別働隊として鳶ヶ巣山砦を背後から攻撃
  • 天正7年(1579年)、松平信康切腹事件に関し、信長への弁明の使者を務める
  • 天正10年(1582年)、本能寺の変では三河への帰国の際に家康に同行(神君伊賀越え)。天正壬午の乱では最高指揮官として信濃国の国人の懐柔等を担当
  • 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参戦。緒戦で森長可・池田恒興らを撃退する功をたてる
  • 天正14年(1586年)、秀吉の取り成しで従四位下、左衛門督に任命され、秀吉から近江国内に1000石と京都に宅地を拝領する
  • 天正16年(1588年)、眼を患っており、長男・家次に家督を譲って隠居する
  • 慶長元年(1596年)、京都で死去。享年70


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