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石川数正

石川数正(いしかわ かずまさ、1533-1593年)は徳川家康の家老であり、家康が人質のころから酒井忠次とともに家康に付き従い、のちに西三河の旗頭に任じられ、徳川家の中枢を担った。

信長死後は、織田家中を掌握して台頭してきた秀吉の交渉役という重責を担った。家康と秀吉の関係が悪化する中、数正は開戦反対派であったが、徳川家中では秀吉との開戦に傾いていたとされる。こうした家中での立場が影響したのか、のちに出奔して秀吉に与した。

経歴

生誕年は不明、数正は石川康正の嫡子として誕生した。石川氏は三河松平氏譜代であり、譜代の中でもトップクラスの重臣に位置する家系であった。

家康幼少のころより仕える

天文18年(1549年)には竹千代(のちの松平元康、徳川家康)が今川氏の人質として駿府へ連れて行かれた際にこれに付き従ったとされる。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは今川方として家康とともに参陣している。この戦いで今川義元が敗死すると、翌永禄4年(1561年)に家康は岡崎城へ入城。そして今川氏からの独立を図り、今川方の拠点・牛久保城を攻撃して独立の意思を明確にした。

同年に家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、数正が先鋒を務めている。その後、信長が家臣・滝川一益を使者として和議の申し入れをしてきたが、このとき数正は家康を説得して和議を成立させている。

こうして翌永禄5年(1562年)には織田・徳川間で清洲同盟が成立し、数正はこれに大きく貢献したのである。

同年には今川の人質となって駿府にいた家康嫡男・信康と家康正室・築山殿が人質交換により取り戻したが、このときもまた、数正が今川氏真と交渉したとみられる。

永禄6年(1563-64年)には西三河全域で三河一向一揆が勃発。このとき父・康正や本多正信らは一揆軍に加わって家康と敵対しているが、数正は浄土宗に改宗して家康方についている。家康は翌年までに苦心の末にこれを鎮圧した。

石川氏宗家の当主は父・康正であったが、この一件により、石川宗家は家康の命により、康正の異母弟・石川家成の系統にとって代わられることになる。

こうして家康は永禄9年(1566年)までには三河国を平定したのであった。

西三河の旗頭に

永禄12年(1569年)には数正に転機が訪れる。

この年、家康は武田信玄と密約を結んで遠江国今川領への侵攻を行なっていたが、今川氏真を降伏させて掛川城を手に入れた。この遠江攻略には数正も従軍しているが、これまで徳川家臣の双璧をなしていたのは東三河の旗頭・酒井忠次と西三河の旗頭・石川家成であった。

だが、家成は戦後に掛川城主に任命されて遠江国へ移っていった。このため数正が西三河の旗頭に抜擢されたのである。

織田政権期

その後、家康は同盟国の信長とともに浅井・朝倉氏や武田氏と戦っていく。

数正もこうした戦いの中、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍している。

天正7年(1579年)、信康の切腹事件後には岡崎城代となる。

信長死後、秀吉との出会いは運命か?

天正11年(1582年)、信長によって武田氏が滅亡すると、これに協力した家康は戦後に駿河国を拝領(甲州征伐)。その後は信長に招待されて安土城へ赴き、堺を遊覧中のところ、信長が光秀に討たれるという大事件が起こる(本能寺の変)。

このとき家康のお供衆はわずか数十人ほどであり、数正もこれに付き従っていた。家康一行は一揆軍の襲撃の危機にさらされる中、 伊賀国経由ルートで命からがら三河国へ戻ったという(神君伊賀越え)。

天正12年(1583年)には織田家の覇権争いで羽柴秀吉と柴田勝家の決戦(賤ヶ岳の戦い)が行なわれ、秀吉が勝利した後、家康は数正を戦勝祝いの使者にたてたという。

このとき数正は秀吉とはじめて出会い、のちの出奔へとつながっていくのである。

天正12年(1584年)には信長二男・織田信雄と秀吉が不仲となり、信雄が家康を頼って小牧・長久手の戦いが勃発。この戦いは長期戦となったが結局、秀吉の巧みな外交によって織田信雄が単独講和してしまい、家康も和睦を受け入れざるを得ないこととなった。

秀吉から和議の申込があった際、家康が重臣らに意見を求めたところ、数正はこれを受け入れるべきだと提言したという。

このときも数正は講和交渉の使者を務めており、家康二男・於義伊(のちの結城秀康)を秀吉の養子として送るが、この際に自らの息子二人も連れて行って於義伊に仕えさせたという。

家康を震撼させた数正の出奔

天正13年(1585年)、数正は突如出奔し、秀吉の元へ走った。

出奔の理由は諸説あって定かではない。ただ、当時は家康と秀吉との関係は悪化しており、徳川家中では秀吉と再び開戦する方向に傾いていたが、一方で数正はこれまで秀吉の取次役を務めており、関係改善に尽力していたとみられている。

こうして岡崎から秀吉のもとに走った数正は翌天正14年(1586年)に河内国内で8万石を与えられている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、信濃・松本10万石に加増移封される。その後、松本城の築城と城下町・天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力した。

文禄2年(1593年)に死去、享年61であった。

出奔の真実とは?

数正出奔の理由はわかっていないが、以下のように多くの説が存在している。

  • 秀吉の器量に惚れ込んで自ら寝返ったとする説。
  • 秀吉得意の恩賞による誘いに乗せられたとする説。
  • 秀吉に対する穏健派であったが、本多忠勝ら強硬派との軋轢で徳川家中における立場が著しく悪化したためとする説。
  • 数正が徳川家に連れてきた小笠原貞慶が秀吉に転じたため、その責任を追及されたとする説。
  • 松平信康の後見人を務めていたことから、信康切腹事件(1579年)をきっかけに家康と不仲になっていたとする説。
  • 信康切腹事件(1579年)後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移り、徳川家中における立場が悪化したとする説。
  • 数正が徳川家に連れてきた小笠原貞慶が秀吉に転じたため、その責任を追及されたとする説。

数正は徳川軍の軍事機密を握っていたことから、家康はこれが秀吉に漏洩したことを悟り、慌てて旧武田家臣から信玄・勝頼期の武田軍の軍事情報を提出させて、これをベースに軍事制度の再構築を行なったという。

秀吉との再戦を目前に控えていた家康にとって、数正の離反はあまりにも大きな痛手となったのである。

略年表

  • 時期不明、石川康正の嫡子として誕生。
  • 天文18年(1549年)、家康の今川氏の人質時代をとも過ごす。
  • 永禄3年(1560年)、今川方として桶狭間の戦いに従軍
  • 永禄4年(1561年)、織田信長からの和議の申し入れに、家康を説得して和議を成立させる
  • 永禄5年(1562年)、清洲同盟の成立に携わる。
  • 永禄6年(1563年)、三河一向一揆では浄土宗に改宗し、家康に味方する
  • 永禄12年(1569年)、西三河の旗頭に任命される
  • 元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参戦
  • 元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いに参戦
  • 天正3年(1575年)、長篠の戦いに参戦
  • 天正7年(1579年)、信康切腹事件の後、岡崎城代となる
  • 天正10年(1582年)、本能寺之変の際、家康の堺から三河への帰国に同行(神君伊賀越え)
  • 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後、戦勝祝いの使者として秀吉にはじめて会う
  • 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。秀吉から和議の申込にはこれに賛同して家康に提言する
  • 天正13年(1585年)、突如出奔して秀吉のもとへ逃亡、秀吉家臣となる
  • 天正14年(1586年)、秀吉から河内国内で8万石を与えられる
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐後、信濃・松本10万石に加増移封となる。その後は同地で松本城の築城などの内政に務める
  • 文禄2年(1593年)、死去。享年61。


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