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3分でわかる徳川家康の生涯

経歴

徳川家康(とくがわ いえやす、1542-1616年)は三河国の戦国大名で、"海道一の弓取り"の異名をもつ。のちに江戸幕府初代将軍となった。

天文11年(1542年)に三河国の土豪・松平広忠と水野忠政の娘・於大(伝通院)との間に誕生した。幼名は竹千代という。

人質時代

3歳の頃に母の兄・水野信元が尾張国の織田氏と同盟を結んだため、今川氏の庇護を受けていた広忠は於大と離縁し、竹千代は幼くして母と生き別れた。

6歳の頃、父・広忠が今川氏に従属したことで人質として駿府へ送られることとなったが、その護送途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りで織田方へ引き渡されてそのまま人質となり、信長とともに過ごすこととなった。

その後、今川義元が織田信秀の庶長子・織田信広を捕虜にしたことで人質交換が成立。ようやく当初予定されていた今川領の駿府に移ったが、同年に父・広忠が死没したために岡崎城に帰参した。
以後、今川義元の家臣となり、元服を経て、義元の姪・関口親永の娘の瀬名(築山殿)を娶り、のちに祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と称して初陣を飾って功をあげるなどした。

今川からの独立と三河国統一

しかし、桶狭間の戦い(1560年)で主君・今川義元が戦死すると、まもなくして今川からの独立を図り、信長と清洲同盟(1562年)と呼ばれる軍事同盟を締結し、義元からの偏諱である「元」の字を返上し、家康と改名した。
岡崎城を居城とした独立後は、三河一向一揆(1564年)や今川氏との攻防に苦心するも、三河国統一(1566年)を果たし、同年に朝廷から従五位下・三河守の叙任を受けて「徳川」に改姓。

織田政権下

織田政権下では信長の協力者としてともに戦うとともに、自身も勢力拡大を図っていく。
足利義昭を奉じての信長上洛(1568年)の際には援軍を派遣。同年に武田信玄による駿河侵攻(1568-1570年)に呼応して今川領の遠江国へ侵攻し、今川氏真を降伏させて遠江国を支配下に置いた。

1570年(元亀元年)には遠江国に浜松城を築城して居城としたが、一方で信長包囲網がはじまり、金ヶ崎の戦い(1570年)、姉川の戦い(1570年)では援軍として参加した。 信玄による西上作戦(1572年)の際、たて続けに敗戦して多くの所領を奪われて窮地に陥るが、その途上で信玄が死去したことで所領奪還の反撃にでた。

その後、武田勝頼との攻防が続く中、長篠の戦い(1575年)で信長とともに出陣して大勝、御館の乱(1578年)をきっかけに武田と北条が手切れになると、これに乗じて北条氏政と同盟を締結して武田氏を追い込んでいった。
一方でこのころ、正室・築山殿と嫡男・松平信康が武田氏へ内通したとして、信長から切腹の命がだされた。家康は熟慮の末、信長との関係を優先して築山殿を殺害、信康を切腹させている。

高天神城の戦い(1581年)では勝頼から高天神城を奪回、翌年には織田信忠を総大将とした甲州征伐(1582年)にも参戦し、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼした。
しかし、まもなくして本能寺の変(1582年)が勃発。このとき、家康は堺を遊覧中であり、供は小姓衆など少人数であったために極めて危険な状態であったが、伊賀国の険しい山道を越えて本拠・三河国に辛うじて戻ったという(神君伊賀越え)。

天正壬午の乱と勢力拡大

信長死後の天正壬午の乱(1582年)では武田旧領を巡って上杉氏・北条氏・真田氏らとの争奪戦となったが、長期戦の末に北条と和睦して甲斐・信濃国の確保に成功した。

その後、賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家を倒して織田家を掌握した秀吉と対立するようになる。そうした中、家中で秀吉と不和になった織田信雄と同盟を結んで秀吉と小牧・長久手の戦い(1584年)で争ったが、信雄の単独での降伏によって終戦となった。

豊臣政権下

1585年(天正13年)には紀伊国の雑賀衆、土佐国・長宗我部元親、越中国・佐々成政、真田昌幸をはじめとした武田遺臣らなど、家康方であった諸勢力が秀吉方に臣従し、秀吉は関白となって豊臣政権を樹立。
こうした状況の中で家老・石川数正が離反。そして翌年には秀吉による執拗な懐柔策の前についに屈して豊臣政権への従属を余儀なくされた。

九州平定(1587年)の後に発令された関東・奥羽の惣無事令での監視を任され、このころに左近衛大将、および左馬寮御監に叙任された。縁戚関係にあった北条氏に対し、秀吉への恭順を促すなど努めたが、 小田原征伐(1590年)が開始されるとやむなく参戦。戦後、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。
文禄の役(1592-93年)では渡海せずに名護屋城に在陣。その後、内大臣に叙され、秀吉の晩年には五大老の一人に任命された。

関ヶ原と江戸幕府の創設

秀吉死後は秀吉の遺言を無視して大名家同士の婚姻を行なうなど、五大老筆頭として権勢をふるった。 五奉行の石田三成らがこれに反発、関ヶ原合戦(1600年)で東軍総大将として石田三成らに勝利し、天下人としての立場を確立した。

その後、関ヶ原合戦の戦後処理を終わらせると、家康は征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命されて江戸幕府の創設(1603年)となった。

1605年(慶長10年)には将軍職を秀忠に譲り、自らは1607年(慶長12年)に駿府城に移るが、「駿府の大御所」として実権を握ったまま江戸幕府の制度作りにつとめていった。

晩年には脅威に感じていた豊臣家を大坂の陣(1614-15年)で滅ぼし、戦後、朝幕関係を規定した禁中並公家諸法度、また、諸大名ら武家の統制のために武家諸法度や一国一城令を制定した。


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