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「今川氏輝」若くして謎の死を遂げた義元の長兄。8代目今川当主。

今川氏輝は今川義元の兄であり、戦国大名今川氏の第10代当主。22歳という若さで突然死した。

家督を継承するも、しばらくは母が当主代行か?

1513年(永正10年)今川氏親の嫡男として誕生。幼名は竜王丸。

1525年(大永5年)に元服して "氏輝" と名乗ると、翌1526年(大永6年)には父・氏親が死去したために家督を継いだ。

ただし、今川氏の実権は母の寿桂尼(じゅけいに)が後見人として補佐する形で握っていた。これは氏輝がまだ13歳という若さであり、病弱でもあったことが関係していると考えられている。

しばらくは氏輝に代わって寿桂尼が領国支配に携わり、氏輝当主の間に15通の文書を発給している。また、この発給文書の大半が仮名書きで朱印状としている。

氏輝当主の時代は父・氏親の時と同様に後北条氏と同盟関係にあり、京都から駿河に数多くの公家がやってきて歌会などが開催されていた。そして、軍事行動は少なかったとみられている。

氏輝は家領のあった地域を支配する今川氏との関係が深い歌人の冷泉為和の門弟として和歌を学び、京都の公家や文化人と盛んに交流していた。
毎年正月の今川氏歌会始をはじめとして、宗長(=連歌師)や冷泉為和の指南する歌会にたびたび参列しており、1530年(享禄3年)には近衛尚通から『古今和歌集』を贈られている。

領国経営を開始

1532年(天文元年)頃からは氏輝も当主として領国経営を開始していった。

氏輝は父が平定した遠江国での検地を実施。ちなみに今川領の検地は父・氏親の代から開始されていたので引き続きということになる。

このほか、朝廷に献上物を送って中央との関係を強化、さらに、馬廻衆の創設や流通の活性化の政策を実施していったという。

また、氏輝の発給文書は43通残っており、母・寿桂尼とは異なり、真名書き(=漢字文)で花押の据えられた判物となっている。

1534-35年(天文3-4年)には、武田信虎と対立する北条氏綱や甲斐の国衆らを支援し、甲斐へ出兵して武田信虎と戦った。

謎の死

1536年(天文5年)、若くして突如急死した。同日に氏輝の後継的立場であった弟の彦五郎も死去したという不可解な日であった。
死の少し前には、為和らとともに北条氏の歌会参列のため、小田原へ出かけたことが確認できている。真相は定かでないが、毒殺説・自殺説など憶測が飛び交っている。


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