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【超入門】5分でわかる今川義元の生涯

今川義元イラスト

今川義元って何したの?

世間一般に認知されている今川義元のイメージといえば、信長にあっけなく敗れた "弱者"といったところであろうか。

こうしたマイナスイメージは、テレビや映画など、メディアの影響を強く受けているが、そもそも "桶狭間の戦い" 以前の義元のした事を知っている人はどのくらいいるのだろうか・・・。そこにフォーカスすると、義元の意外な一面が見えてくる。

まず1点目は、東海3か国(駿河・遠江・三河)を支配し、戦国今川氏の最大版図を築いたことだ。

3か国以上支配したことがある戦国大名となると、かなり限定される。伊達・織田・豊臣・徳川・武田・北条・三好・長宗我部・尼子・毛利・大内・大友・島津・・・、他にもいそうではあるが、数えられるくらいしかいない。こうした蒼々たる顔ぶれに義元も入っているのだ。「海道一の弓取り」と称された所以である。
※「海道」は東海道を指す。「弓取り」は武将を示す。「海道一の弓取り」は "東海道で一番の武将" の意

義元は当主に就いてまもなく、武田氏と婚姻同盟を結び、これがきっかけで関東の北条氏が攻め込んできて8年ほど戦ったが、最終的に自領の駿河国を守り抜いた。その後は西の三河国の覇権をめぐって尾張の織田氏と争うが、これに勝って三河国をも制圧。やがて義元は再び北条氏と同盟を結び、「今川=武田=北条」の3氏が互いに対等な同盟関係としたのだ。
今川の領国とその兵力は、あの武田信玄や北条氏康と対等なほど、力は拮抗していたというのだから驚きだ。

もう一点は地味だが、義元の積極的な領国経営があげられる。

今川氏の検地は父・氏親の代から行なわれていた。「検地」といえば領国支配の基本だが、実は歴代当主の中で義元が最も多く検地をこなしている。この他、父が制定した分国法に追加する形で「かな目録追加」も制定した。実際、義元のこうした領国経営は歴史研究家からも評価されているのだ。

さて、前置きが長くなってしまったが、次に義元の生涯をみていこう。

誕生~今川家当主へ

今川家は将軍足利一門の分家という名家中の名家であったことから、将軍家を支え、またバックアップとして足利家の世継ぎが絶えたときに将軍継承順位に名を連ねるほどの家柄であったという。

義元(幼名:方菊丸)はそのような今川家の当主・今川氏親の五男として永正16年(1519年)誕生した。

このとき今川家は既に跡継ぎとして長兄の氏輝がいたため、父・氏親は義元を仏門に入れて修行をさせ、学問を身につけさせようと考えており、義元が3、4歳のときに駿河国善徳寺に出家して今川氏重臣出身の僧・太原雪斎に預けられたといい、 栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称してのちに雪斎と共に京都に上って指導を受け、学識を深めていくという幼少期を過ごしていった。

また、この修行中には歌会などを通じて京都の公家や文化人とも深く交わっている。

今川家の家督争い

こうした中、天文5年(1536年)になんとも不可解な出来事が起きた。当主の長兄・氏輝と、継承権のある次兄・彦五郎の2人が同日に死亡したのである。しかも死因は謎といわれている。

偶然にもこの頃の雪斎と承芳は、前年に今川氏と武田氏が不和となったことを理由に氏輝から帰国要請を受けて駿河へ戻っていたのである。このため承芳に家督継承権が巡ってきたという。

家中での影響力が強かった母の寿桂尼や太原雪斎は、承芳を後継者にしようと還俗させて室町幕府第12代将軍・足利義晴より偏諱を賜り、"義元"と名乗らせた。
しかし、有力家臣の福島(くしま)氏がこれに反対、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探(げんこう えたん)を擁立して対抗。
ここに今川氏のお家騒動がはじまる。

寿桂尼は恵探派と面会して説得を試みるが失敗。恵探派は挙兵して駿河府中の今川館を襲撃してきた。
これに義元側は奮戦し、恵探側も方ノ上城や花倉城を拠点として抵抗。しかし、義元側に後北条氏が加勢したことで形勢は義元側に一気にかたむき、家臣・岡部親綱(おかべ ちかつな)が方ノ上城を陥落すると、ついで恵探が籠城する花倉城もいっせいに攻め立てて陥落、恵探を自害に追い込んだのであった(花倉の乱)

こうして義元は今川氏当主となり、僧としてともに修行を積んだ太原雪斎を重用することになる。

外交方針の転換

新体制となった今川氏は軍師・太原雪斎の手引きで外交方針の大きな転換を行なう。

義元は天文6年(1537年)に甲斐・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えることで武田氏と同盟を締結、しかし、これまで長きにわたって同盟関係にあった北条氏とは手切れとなり、北条氏綱はまもなく駿河国へ攻め込んでくることになる。

河東一乱

北条方による侵攻により、義元は駿河国の河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。これにより、河東付近で今川と北条による長期の戦いが続き、ようやく決着がついたのは天文14年(1545年)であった。

同年、河東を奪還すべく義元は北条氏と敵対する山内上杉氏の上杉憲政と同盟を締結し、北条氏を挟み撃ちにする策を立てる。そして同盟国の武田氏にも出陣を要請して侵攻を開始した。
つまり、駿河国=今川・武田連合軍、関東=上杉憲政軍という形で同時に軍事行動に出たのである。

関東攻めの山内上杉軍は、扇谷上杉氏や古河公方の足利晴氏らとも連合し、8万もの大軍となって河越城を包囲。この窮地に立った氏康は武田晴信(のちの信玄)に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川氏に返還するという条件で和睦し、ようやく河東一乱が終結するに至ったのである。

三河国を巡る戦い

一方で義元は河東一乱と並行して三河国への進出もしている。

三河国は元々、松平家がほぼ支配していたが、一族の内訌などを経て、このころは既に今川家の庇護下に置かれるほど弱体化していた。

織田信秀との戦い

天文9年(1540年)には尾張の織田信秀(=信長の父)によって松平氏の支城・安祥城(現愛知県安城市)が奪われてしまう。

これに危機感を抱いた義元はたびたび三河に兵を出しており、安祥城付近を舞台に「織田氏 vs 松平・今川連合」という構図で抗争が繰り広げられたのである。

こうした中、天文14年(1545年)に義元は北条氏と和睦したことで、三河国の制圧に専念できるようになる。

天文16年(1547年)には岡崎城を居城とする松平当主・松平広忠(=家康の父)が織田方の攻撃に耐えかね、義元に援助を求めてきたが、義元は代わりに広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すよう約束を取り交わした。

このように竹千代は岡崎から駿府へ送られることになるはずであった。しかし、義元から竹千代の護送の命を受けた戸田康光が護送途中で裏切り、敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こる。これは前年に義元が戸田一族の戸田宣成・吉光を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたというものであった。
これに激怒した義元はまもなく康光を攻め滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れている。

天文17年(1548年)には再び三河国内で侵攻してきた織田軍を迎え討つため、雪斎や朝比奈泰能らを大将として派遣。安祥城の東の小豆坂という地で両軍激突となったが、このときは最終的に今川軍は織田軍に大勝している。(第二次小豆坂の戦い)

天文18年(1549年)には突如、松平当主の広忠が死去した。

当主不在となった岡崎城の松平氏が織田方に寝返る恐れがあった。後継ぎの竹千代は織田方に捕えられている。さらには岡崎城は西三河に位置しており、すぐ隣は織田の領地である。

しかし、この危機を察知した義元の動きは早かった。

まもなく太原雪斎ら率いる軍勢を岡崎へ向かわせて同城を接収、事実上松平一族とその配下の三河国人らを従属下に収めると、さらには続けて織田信広の守備する安祥城を雪斎に攻めさせて、同年11月にはこれを奪取。敵将の信広を捕えたことで人質交換による竹千代の奪還も果たしたのであった。

このように義元は松平氏の従属化と安祥城の攻略により、三河国をほぼ掌握したのであった。

内政・外交面を強化

天文19年(1550年)になると義元夫人が亡くなり、武田と姻戚関係が一時断たれることになった。このため、義元は天文22年(1552年)11月に娘の嶺松院を武田義信(信玄の嫡男)に嫁がせることでその同盟関係を保った。

一方で翌天文22年(1553年)には「今川仮名目録追加」という分国法を公布。ここにおいて室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府との間に残されていた関係を完全に断ち切った。

さらに同年には北条氏康の嫡男氏政と武田信玄の娘・黄梅院が婚約をしたが、今川もこれに倣うように翌天文23年(1554年)に太原雪斎の尽力で嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿を縁組した。

この結果、今川・武田・北条の三者が互いに婚姻関係となったため、ここにいわゆる甲相駿三国同盟が成立したのである。

義元は1541年(天文10年)~1557年(弘治3年)まで、毎年のように検地を繰り返す等、今川氏の財政基盤を確固たるものとし、軍事力を強化していった。

家督を譲る

三国同盟を成立させた義元は翌永禄元年(1558年)には氏真に家督を譲っている。以後、今川氏の発給文書をみると、本国の駿河国では今川氏真署名の文書となっており、義元の発給文書は遠江と三河に集中していることがわかる。

義元はこのころには次なるターゲットである尾張国の攻略を見据え、新領地の三河国の鎮圧と領地経営に力を注いでいたのであった。

桶狭間での死

順調に領国経営と勢力拡大をしていた義元であったが、まさかの死に直面することになる。桶狭間の戦いである。

この頃の織田氏は織田信長の代となり、信長はほぼ尾張を統一していた。一方で東部方面が安定したとみた義元は、永禄3年(1560年)に西へ進軍を開始し、尾張国まで侵入した。

決戦の日、義元は一斉攻撃を開始し、織田氏の防衛線である丸根砦や鷲津砦を攻略、正午頃には桶狭間に陣を敷いており、戦勝気分に浸っていた。しかし、13時頃になると視界を妨げるほどの豪雨が降り、織田軍はこれに乗じて兵を進め、雨が止んだ直後の14時頃、織田軍が義元の本隊に奇襲をかけてきたのである。

今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000~6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となったという。そして、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとするが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれた。

服部一忠を返り討ちにする気力を見せるが、最期は毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られてしまった。享年42。


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