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今川氏真

最高の血筋

戦国今川氏の最大版図を築いた今川義元の後継者、今川氏真(いまがわ うじざね、1538-1615年)。

彼は天文7年(1538年)、今川家当主・今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡男として誕生。
今川家といえば足利将軍家の庶流であり、母・定恵院はあの武田信玄の姉にあたる人物でもあるから、彼はまさに戦国大名のサラブレッドであった。

しかし、彼は父・義元同様に公家と盛んに交流し、和歌や蹴鞠の会を多く催すなど、武術よりも文化に傾倒していった感があり、 桶狭間以後の氏真の代となってからの今川家は滅亡の道をたどっていく。
・・・当時、駿河・遠江・三河の3つの国をも支配し、今川過去最大の勢力となっていたにもかかわらずである。

今川滅亡の最大の要因は桶狭間の戦いでの敗北だが、以後、どのような過程で今川滅亡に至ったのであろうか?

その答えは、氏真の生涯の中にある。以下、その生涯をみていこう。

幼少~桶狭間までの氏真

氏真の幼少期だが、彼には妹2人だけしかいなかったからか、唯一の家督を継ぐ者として温室に育ったという。

氏真17歳のときの天文23年(1554年)には、今川重臣・太原雪斎の斡旋によって北条氏康の長女・早川殿(はやかわどの)との結婚となった。

この政略結婚で今川氏は武田・北条と互いに婚姻関係が確立され(甲相駿三国同盟)、西の織田信秀との戦いに専念できるようになる。

家督相続

弘治2-3年(1556-57年)には『言継卿記』で公家の山科言継と会っている様子がうかがえる。 色々と物を贈られたり、氏真邸で歌会始が行なわれたりなど、和歌の世界にのめりこんで公家の影響を大きく受けていたようである。

また、時期は定かではないが、このころに父・義元から家督を譲られている。そして翌1558年(永禄元年)からは氏真の発給文書が多くみられるようになる。

ただし、氏真の発給文書は駿河国に限定されており、遠江・三河の発給文書は父・義元がだしている。これは今川の次の狙いが西の尾張国にあったため、氏真は義元から駿河の領国経営を任されていたということのようである。

父・義元の死と家康の離反

このように今川家では順調に領国経営と勢力拡大が進んでいたが、永禄3年(1560年)5月20日の桶狭間の戦いでは、まだ尾張一国すら完全に平定していない織田信長を相手に、父・義元が 「まさか」 の死を遂げた。
「まさか」というのも無理もなく、今川軍は2万余もの軍勢に対し、織田の軍勢は諸説あるものの、わずか1千~5千程度であったのである。

この戦いで氏真は従軍していなかったが、想定外の敗戦処理に追われるハメとなった。敗戦数日後に氏真が家臣に宛てた書状の中で、氏真自身が出陣を考えていたことがわかっており、また、功のあった家臣らに感状を与えたり、恩賞を与えたりしている。

以後、父の遺した今川領をそのまま継承するが、三河・遠江では今川氏の統治に対する不満があったのもあり、義元の死をきっかけに紛争が広がり、今川氏からの離反の動きが活発となっていったのである。

その代表的な1人が松平元康(のちの徳川家康)であった。

松平元康の独立

元康は、過去に松平氏が今川氏に降ったことで、幼少のころから義元の人質となって駿府で過ごしていた。

松平氏本来の居城・岡崎城は今川氏が入っていたが、桶狭間の敗戦によって岡崎城から今川兵が撤退したタイミングを見計らい、元康は岡崎城に入城。そして氏真に弔い合戦を訴えたが、氏真は一向に動こうとしなかった。

そして永禄4年(1561年)になり、元康は織田方に属していた叔父・水野信元の働きで信長と和睦し、ついに今川家からの独立を決意する。

こうして同年に氏真と元康は断交となると、三河国では松平方に与する国人と、今川方に与する国人との間での抗争が広がっていった(三州錯乱)
『朝野旧聞哀藁』によると、氏真は松平家広・西郷正勝・菅沼定勝・菅沼定盈といった諸将らが相次いで今川から離反すると、吉田城内にいた彼らの妻子を、城下に引きずり出し、みせしめのために串刺の刑に処したという。元康の正室・築山殿も駿府にいたが、彼女は父・義元の姪であったことからおそらく殺すことまではできなかったのであろう。

永禄5年(1562年)には、氏真配下の三河西郡城主・鵜殿長照が元康に攻められ、長照の子氏長と氏次の二人が生け捕りにされた。
長照の妻は父・義元の妹であり、彼女は氏真にとっては従兄弟にあたったことから、氏真は築山殿と信康・亀姫の三人(いずれも元康の家族)を引き渡し、人質交換という形としたのであった。

その後も、氏真と元康は東三河を巡ってたびたび争ったが、氏真は桶狭間の戦いの後遺症もあったことから次第に家康に領地を切り取られていった。

永禄6年(1563年)、元康は ”家康” に改名し、同年には三河一向一揆が勃発するも、翌永禄7年(1564年)にはこれを鎮圧して国人衆を配下に組みこんでいった。
こうした中、氏真は同年に東三河の拠点である吉田城を家康に攻め取られ、三河の支配権が断たれることになったのである。

氏真にとってさらに悪い事には、同年末頃から犬居城の天野氏や引間城の飯尾氏、見付の堀越氏などが相次いで今川家から離反し、遠江国でも混乱が広がっていった。そして以後、氏真は駿河・遠江を守るという消極的な作戦をとるようになるのである。

このように今川家が徐々に弱体化する中で、軍事に不得手な氏真は1700首以上の歌を詠むなど、和歌や風流踊りなどにふけっていたようである。ただ、なにもしていないというわけではなく、領国経営も少なからず気にかけていた。

氏真は活発な文書発給を行なって寺社・被官・国人のつなぎ止めを図り、外交面では北条氏との連携維持、そして幕府の権威によって領国の混乱に対処しようと奔走したが、混乱を止めることはできなかったのである。

今川滅亡

氏真が窮地に追い込まれていく中、武田氏と今川氏との同盟関係にもかげりが見え始めていた。

武田との同盟破綻

このころの武田信玄は川中島で上杉謙信との抗争が収束し、永禄8年(1565年)には今川氏と対立関係にある織田信長と同盟を結ぶなど外交方針に変化が出ていた。さらに同年には信玄嫡男の武田義信が謀反の嫌疑で幽閉される事件も発生している。

実はこの事件が武田・今川間の同盟破棄の引き金になった。

というのも武田義信の妻というのが氏真の妹・嶺松院であり、永禄10年(1567年)の2月に彼女が駿府に送り返されて、武田・今川間の婚姻関係が解消、続いて3月には政治的な影響力をもち、これまで戦国今川氏を支えてきた義元の母・寿桂尼も亡くなってしまったのである。

今川と武田が手切れとなった時期ははっきりしないが、おそらく同年のことと思われる。同年8月に氏真が北条氏康とともに謀り、甲斐国など武田領内に入る塩を止めているので、それ以前なのは確かなようだ。

ちなみに、この塩止めに関して越後の上杉謙信が良しとせずに信玄に塩を運んだというエピソードがあり、「敵に塩を送る」ということわざの所以とされている。

駿府を追われる

永禄11年(1568年)12月、ついに今川滅亡のカウントダウンがはじまった。

武田信玄による駿河・今川領への侵攻が開始され、さらには信玄と家康との間で交わした驚愕の密約「信玄=駿河国、家康=遠江国を攻める」により、家康もほぼ同時に遠江国への侵攻をはじめたのである。(駿河・遠江侵攻)

今川方は東西から挟み撃ちという危機的状況となり、今川重臣の多くが一気に離反して信玄や家康の元へ走っていった。氏真はすぐに駿府から1万5千程の兵を送って武田軍を迎撃したが、あっけなく敗れ、そのまま武田の軍勢が駿府にまで乱入する事態となった。

このとき、氏真の妻である早川殿(北条氏康娘)は何も持たず、輿も用意できずに徒歩で駿府を脱出するほど急で悲惨な状況であったといい、駿府今川館はおろか、臨済寺や浅間神社をはじめ、駿府の町はほとんど焼失したという。

氏真は駿府から敗走して一旦賤機山城へ籠もろうとしたが、これも叶わずに結局、重臣の朝比奈泰朝を頼って掛川城まで逃れた。駿府を発つときは2000程率いていた軍勢が、掛川城に着いたときにはわずか100とも50に減っていたという。

しかし、まもなくして掛川城は今度は家康によって包囲されてしまう。
ただ、掛川城は以外にも堅固であり、年をまたいで永禄12年(1569年)に入っても陥落せずに、半年近くもよく持ちこたえていた。

一方でその間、駿府の陥落を聞いた北条氏康が今川氏救援のために駿河へ侵攻するが、こちらも武田軍との決着はつかずに戦局は膠着。また、武田軍は家康との約束を破って遠江国への侵攻もはじめたため、家康は氏真との和睦を模索するようになる。

そして同年5月17日、氏真は家康から「武田信玄を駆逐したら駿河一国を氏真に返す」という条件で和睦を受け入れて降伏、開城となったのである。

氏真はその後、伊豆へ向かい、戸倉城に入城してようやく北条の庇護下に入った。そして5月23日には北条氏政の子・氏直を養子とし、駿河を譲ることになった。

こうして家康との和睦協定は実現されることもなく、戦国大名としての今川氏は滅亡したのであった。ちなみに氏真がその後いつまで戸倉城にいたかはわかっていない。

徳川家康の庇護下へ

やがて氏真は妻の実家でもある小田原に移ったが、元亀2年(1571年)に義父の北条氏康が死去すると、ここから追い出されることになる。

後継者の北条氏政は妻に武田信玄の娘を迎えていたのもあり、武田氏との同盟を復活させたのである。かつての甲相駿三国同盟のときの結婚がここで影響し、氏真は小田原にいられなくなった。
そして今度は家康を頼り、その庇護下に入ることになるのである。

天正3年(1575年)3月には氏真は上洛して、皮肉にも父の仇である織田信長に謁見しており、目の前で蹴鞠を演じている。
その後は信長・家康連合が武田勝頼に大勝利を収めた長篠の戦いに従軍し、牛久保で家康軍の後詰を務めた。ちなみに氏真に仕えていた朝比奈泰勝は家康のもとに使者に訪れた際、この戦いに参戦して内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になっている。

戦後、氏真も武田の残兵掃討に従事したのち、徳川軍による駿河・諏訪原城(静岡県島田市)攻撃にも従い、同年8月に諏訪原城は落城している。
そして翌天正4年(1576年)にこの諏訪原城が家康によって牧野城と改名されると、氏真はその城主を任されたが、わずか1年足らずで翌年には城主解任となり、その後しばらくは家康の浜松城近辺で過ごしていた様子が『家忠日記』に記されている。

以後、氏真の事績はほとんど残されていないが、天正18年(1590年)に秀吉が天下統一して家康が江戸に移封となった際、江戸に行かずに京に上って住んでいたようである。この頃には出家して宗誾(そうぎん)と号していることが分かっている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、氏真は嫡孫・範英と、二男・品川高久(今川宗家以外は「品川」を名乗ることになる)と共に徳川秀忠に出仕して江戸幕府の旗本に列したため、江戸に移住した。

慶長19年(1614年)、江戸品川の品川高久の屋敷で死去。享年77。


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