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太原雪斎

「雪斎さえ生きていれば、今川義元は桶狭間で討死することはなかった・・・」

そこまでささやかれる程の人物・"太原雪斎(たいげん せっさい)"とは一体何者であろうか。

彼は臨済宗の僧にして今川家の全盛期を築き上げた今川義元の右腕としてもっとも信頼された家臣であり、今川家にとって非常に重要な役割を果たした人物である。それだけの信頼を得たのは、義元を養育もかねて、ともに修行の日々を過ごしたからであろう。

それでは雪斎の生涯を通して2人の関係や今川氏の全盛期をみてみよう。

義元の養育と修行の日々

義元の軍師として名高い雪斎は明応5年(1496年)、今川氏の譜代一族出身の庵原左衛門尉の子として誕生した。

父方の庵原氏は駿河国庵原郡庵原郷(静岡市清水区)、母方の興津氏は同郡興津郷(静岡市清水区)の在地領主であり、ともに今川氏の譜代として重要な立場にいたようである。

めぐまれた家柄に生まれた雪斎は幼きころより出家して仏道に励んだ。

はじめ駿河国善得寺に入ったのち、将来性を買われて京都の建仁寺に移ったとされ、以後は18年にもわたって禅の修行を積んだ。 京都の建仁寺では護国院の常庵竜崇長老の衣食を世話し、唐の禅僧馬氏道一の故事に習って、郷里に帰ることなく日夜寝食や寒暖のことを忘れたように修行に励み、教学と知識を磨いたという。

いつごろ出家したのかはよくわかっていないが、父が永正元年(1504年)頃に亡くなっているため、これを契機として出家したとみられている。

義元との出会い

雪斎が京都の建仁寺で修行中のころ、今川家では義元の父・氏親が遠江を平定するなど大きく勢力を伸ばしており、そうした中で永正元年(1519年)に義元が誕生する。

氏親は幼き義元(幼名:方菊丸)を仏門に入れて修行をさせ、学問を身につけさせようと考えていたようであり、修行中の雪斎のうわさを聞いたようである。
そうした中、雪斎(この頃の僧名:九英承菊)は、氏親によって駿河へ戻るよう要請された。

義元の教育係を依頼された雪斎は最初は断ったが、氏親の懇願に根負けして駿河の善得寺でこれを引き受けることになった。これが大永2・3年(1522・23年)頃のことである。このとき雪斎は26・27歳、義元はわずか3・4歳であった。

大永6年(1526年)、今川家では氏親が分国法『今川仮名目録』を制定したが、同年に死去している。これにより義元の長兄にあたる若年の氏輝が後を継いだ。諸史料によれば、このときの雪斎と義元はまだ駿河の善得寺におり、また、同寺での2人は優れた門弟として評価されていたことがわかる。

その後、雪斎は義元(僧名:梅岳承芳)を連れて上洛し、元々修行していた京の建仁寺へ入ってともに修行を続けた。さらにはこれに飽き足らずに妙心寺の門をたたき、大休宗休の元で修行を積んだという。

このように2人はともに修行を積む一方、たびたび歌会に参加する等、京都の公家や文化人との交わりを深めて幅広く人脈を築いており、その才能や知識は高く評価されていたようである。

義元の家督相続

氏輝時代は比較的軍事行動も少なく、北条とは同盟関係にあり、甲斐の武田氏とも和解していた。しかし、天文4年(1535年)に武田氏と不和となったことで、雪斎と義元は駿河の善得寺に戻るように要請を受けて帰国している。

天文5年(1536年)、突如として2人の運命を一転させる不可解な出来事が起きた。それは当主氏輝と義元の次兄にあたる彦五郎が同日に死去するというものであった。

雪斎は義元の実母・寿桂尼(じゅけいに)と共に義元を還俗させて家督を相続させようとしたが、今川氏の有力家臣・福島氏がこれに反対し、自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立して対抗。家督争いに発展すると、雪斎はすぐさま多数派工作をして恵探派を孤立化させ、恵探のいる花倉城に籠城した恵探を討ち破り、自害に追い込んだのであった(花倉の乱)

義元の政治・軍事の指導者へ

こうして義元が今川氏9代目当主になると、雪斎は僧籍のままでありながら、義元の教育係から国政の補佐役に転身することになった。また、同年に氏輝の菩提寺として駿府に臨済寺が建てられているが、雪斎はその住職となっている。
臨済寺は義元のいる駿府今川館のすぐ近くであり、義元と雪斎がすぐに会うことができる距離であったのだ。

このように義元から絶大な信頼を得ていた雪斎は、以後、僧という身でありながら今川氏の軍事・政治・文化面などで主導していくことになる。

雪斎はこれまでの外交方針を一転させ、今川氏と関係が悪化していた甲斐の武田信虎に接近して関係改善に努めた。

天文6年(1537年)には信虎の嫡子・晴信(のちの武田信玄)に三条公頼の娘を斡旋し、逆に義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎えさせて甲駿同盟を成立させた。しかし、これがきっかけで関東の北条氏綱とは手切れとなり、北条が駿河国に侵攻を開始したことで "河東の乱" と呼ばれる争いがはじまるのであった。

天文10年(1541年)には、武田信虎が駿河へ出かけている間に嫡子・晴信らに閉め出された形で追放されるが、このとき雪斎は甲斐国に赴いて今後の信虎の待遇について協議している。

河東の乱では今川氏は駿河東部を北条に奪われてしまうが、天文14年(1545年)には雪斎が関東管領の山内上杉憲政を誘い込み、さらに武田晴信と共同して河東に出兵し、結果的に河東を取り戻すことに成功している。

三河攻略

天文15年(1546年)、尾張の織田信秀が西三河に侵攻してくると、雪斎は織田軍に侵入された松平広忠(徳川家康の父)が救援を要請してきたのを機に、大軍を率いて西三河に侵攻を開始、翌天文16年(1547年)には三河国・田原城を攻め落とした。
さらに天文17年(1548年)には雪斎が総大将となって三河小豆坂で織田信秀と戦い、織田軍を破って西三河の支配権を得た(小豆坂の戦い)

天文18年(1549年)、織田方の三河国・安祥城(現在の愛知県安城市)を攻め、織田信広を捕虜にし、信広との人質交換により織田家に奪われていた松平竹千代(のちの家康)を今川氏のもとへ取り戻している。こうして三河を制圧し、義元を駿河・遠江・三河の領主とさせることに大きく貢献した。

三国同盟に尽力

天文19年(1550年)に義元夫人が死去したため、武田と今川を結ぶ直接の姻戚関係は断たれることになった。しかし、天文23年(1554年)になって今川・武田・北条による、いわゆる "甲相駿三国同盟" が締結されることになった。

その手順は以下である。

  • 天文22年(1552年)11月
    嶺松院(義元娘) × 武田義信(信玄嫡男)
  • 天文23年(1554年) 3月
    今川氏真(義元嫡男)× 早川殿(北条氏康娘)
  • 天文23年(1554年)12月
    北条氏政(氏康嫡男)× 黄梅院(武田信玄娘)※ただし、婚約は前年の正月

この三国同盟を仕掛けた中心人物が雪斎だったのである。これにより、今川氏は西の尾張国に向けて兵力を集中することが可能となったのであるが、翌弘治元年(1555年)、雪斎は病に倒れて駿河国・長慶寺にて帰らぬ人となった。

武田氏の軍師・山本勘助が「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と『甲陽軍鑑』に記すように、その5年後に義元は桶狭間の地で討たれたのであった・・・。


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