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岡部元信

今川氏の家臣・岡部元信(おかべ もとのぶ)は勇猛果敢な将であり、多くの軍功を打ち立てた。 今川家が没落していく中で武田家に仕えるようになり、高天神城で勇ましい最期を遂げている。

今川家臣期

元信の生誕年は不明で、今川氏の重臣・岡部親綱の子として誕生した。

まず最初に歴史に現れるのは今川義元時代、義元が尾張の織田信秀と戦った天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いである。このときは筋馬鎧に猪の立物(兜の飾りもの)をつけて奮戦し、今川軍の勝利に貢献した。

続けて翌天文18年(1549年)にも織田氏と西三河南部の領有を巡って起こった安祥城の戦いで戦功を挙げ、今川義元から尾張の鳴海城の在番を命じられるのである。

のちの天文21年(1552年)、功を称えられて今川義元から感状を受けている。そして真骨頂を発揮したのが永禄3年(1560年)に義元が討死した桶狭間の戦いであった。

義元が討ち取られた後の今川軍は退却していったが、このとき鳴海城の守備を命じられていた元信はただ一人動じず、退却をせずに籍城をして何度も織田軍を撃退したのである。
そして、信長が和睦の勧告をすると、義元の首をもらい受けると引き換えに開城を申し入れ、信長はその忠義に感動して義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたといわれている。元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、堂々と引き揚げたといい、しかも、その帰国途中で三河国苅屋城を守備する織田方の水野信近らを討ち、城内に火を放って帰国した際には氏真から所領の加増と感状を受けたという。

その後は今川氏真に仕えたが、永禄11年(1568年)に今川氏と手切れとなった武田信玄が駿河の今川領への侵攻を開始し、駿府が占領されると、降伏してそのまま武田信玄に仕えることになったのである(駿河侵攻)

武田家臣期

元亀4年(1573年)、信玄の死後、後を継いだ武田勝頼に仕えるようになると、翌天正2年(1574年)に武田軍が遠江支配強化のために徳川方の高天神城を攻略すると、元信は高天神城の城将に任命された(高天神城の戦い)

天正3年(1575年)、三河国長篠城を巡って武田軍は織田・徳川連合と交戦。このとき武田軍は大敗して甚大な被害を受けた(長篠の戦い)
その後、徳川軍による遠江の武田領への侵攻は活発になるが、元信はその侵攻を何度も阻み、勝頼はその戦功に報いるため、元信に対して所領の加増を行っていった。

天正8年(1580年)、正攻法で元信を倒すのは難しいと考えた家康は、高天神城を多くの付城や砦で囲み、兵糧攻めに持ち込んだ(第二次高天神城の戦い)

このとき元信は救援を求めたが、勝頼は駿河国で織田氏・徳川氏と同盟を結んでいる北条氏政の攻勢を受けており、救援を送れなかった。そして、翌天正8年(1581年)には城の兵糧が底を尽き、この包囲によって城兵の大半が餓死していった。

元信は籠城不可能を悟り、城の放棄を決断して残った城兵と共に果敢にも徳川包囲陣を襲撃し、討ち死して果てたのであった。

元信から救援依頼を受けたにもかかわらず、援軍を出さなかった勝頼であるが、その結果、武田氏の威信を大きく失墜させることになったのである。


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