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【人物相関】今川と北条氏

北条氏は北条早雲が祖であり、今川氏とは姻戚関係にある。応仁の乱の頃、今川義忠が北条早雲の妹の北川殿を娶ったことから姻戚関係となった。

早雲は今川氏親の叔父であったことから、氏親が幼少のころに直面した今川の家督争いに介入し、氏親を当主にして争いを解決させている。
その後、早雲と氏親は軍事行動をともにし、今川氏の勢力拡大の手助けをする傍ら、単独では伊豆・相模国へと進出し、戦国大名として独立を果たした。

続く第2代当主の北条氏綱の代になっても北条と今川は引き続き、友好な関係であった。

しかし、再度今川氏の家督争いが勃発して当主・今川義元が誕生すると、義元は北条氏と敵対する甲斐の武田信虎と同盟を締結、信虎の娘を正室にむかえた。氏綱はこれを北条と今川の手切れと受け取り、河東一乱で両者は10年近くに渡って対立したのであった。

この間に北条氏と武田氏は当主が交替している。北条氏は氏綱が死去し、嫡男の氏康が家督を継いだ。また、武田氏も信玄が父・信虎を駿河へ追放することで当主の座に就いた。

3代目の北条氏康は河東一覧の後も義元と引き続き対立関係にあったようであるが、1554年(天文23年)の甲相駿三国同盟の締結によってようやく関係が修復したのであった。

以後、戦国大名の今川氏が滅びるまで北条と今川の同盟関係は続いた。


北条早雲アイコン

北条早雲(ほうじょう そううん)

後北条氏の祖であり、戦国大名の祖ともいわれる。

甥の今川氏親が幼少の頃に勃発した今川家の家督争いに介入し、今川氏親を当主にしている。

のちに氏親と軍事行動をともにして今川氏の勢力拡大に貢献。並行して自らも伊豆・相模国へ進出して独立を果たし、北条家の戦国大名としての礎を築いた。


北条氏綱アイコン

北条氏綱(ほうじょう うじつな)

後北条氏2代目当主。

父・早雲の後を継ぐと、関東への勢力拡大路線も引き継ぐが、扇谷上杉氏や山内上杉氏、古河公方、甲斐の武田信虎や安房国の里見氏など、苦難続きであった。
早雲の代は伊勢氏を称していたが、氏綱の代には北条氏(後北条氏)へ改姓している。

今川氏とは早雲の代からはじまった姻戚関係をベースに良好な関係であった。しかし、今川家の家督争い・花倉の乱(1536年)で今川義元が当主となると、義元が武田信虎と手を結んだことで手切れとなり、今川領への侵攻を開始した(河東一乱)。

一方で古河公方・足利晴氏と姻戚関係を結んでいるが、今川との敵対関係が続く中で没した。


北条氏康アイコン

北条氏康(ほうじょう うじやす)

後北条氏3代目当主。

相模の獅子と称された文武両道の名君。

父の後を継いだ氏康は河東一乱の終盤の1545年(天文14年)に、西から今川氏、北から山内・扇谷の両上杉氏といった大勢力を相手に挟撃の一大危機を迎えている。

今川と和睦して難を逃れると、翌1546年の河越夜戦では、山内・扇谷の両上杉氏ら大連合軍が包囲していた河越城で圧倒的劣勢の中、奇襲によって勝利し、扇谷上杉氏を滅ぼしている。

以後、関東諸将との攻防は続いたものの、甲相駿三国同盟(1554年)の締結に至ったことで、敵対していた今川氏・武田氏と同盟関係となり、関東への侵攻に専念して勢力を拡大していった。


※NHK大河「おんな城主 直虎」にあわせた連載記事はこちら ⇒ 「井伊直虎」特集


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