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「今川×北条」の歴史:代々から深く繋がる両者の関係とは?

今川と北条との繋がりは、義元の祖父・今川義忠の代に遡る。応仁の乱の頃に、義忠が北条早雲の妹・北川殿を娶ったことから姻戚関係となったのである。

早雲といえば、後北条氏の祖である。
彼は今川氏親の叔父であったことから、氏親が幼少のころに直面した今川の家督争いに介入し、氏親を当主にして争いを解決させている。
その後、早雲と氏親は軍事行動をともにし、今川氏の勢力拡大の手助けをする傍ら、単独では伊豆・相模国へと進出し、戦国大名として独立を果たしたのであった。

続く2代目当主の北条氏綱の代も、北条と今川は引き続き友好な関係を保っていた。しかし、天文5年(1536)に再び今川氏の家督争い(花倉の乱)が勃発して当主・今川義元が誕生すると、義元は北条氏と敵対する甲斐の武田信虎と同盟を締結、信虎の娘を正室にむかえている。
武田と敵対する氏綱は、この同盟を ”北条と今川の手切れ” と受け取り、すぐに駿河今川領へ攻め込んで富士川以東の地域(河東)を制圧した。以後、両者は10年近くに渡って河東を巡って対立することになる。(河東一乱)

なお、この間に北条・武田それぞれが当主交替となっている。北条氏は氏綱が死去し、嫡男の北条氏康が家督を継いだ。また、武田氏も武田信玄が家臣とともにクーデターを起こし、父・信虎を駿河へ追放することで当主の座に就いたのである。

3代目の氏康は、河東一乱の後も義元とは引き続き対立関係にあったようであるが、天文23年(1554)の甲相駿三国同盟の締結によってようやく関係が修復したのであった。

以後、武田信玄と徳川家康の共同による駿河・遠江侵攻によって、戦国大名としての今川滅亡に至るまで、北条と今川の同盟関係は続いたのであった。

北条家の当主たち

北条早雲アイコン

北条早雲(ほうじょう そううん)

後北条氏の祖。戦国大名のパイオニア的な存在。

甥の今川氏親が幼少の頃に勃発した今川家の家督争いに介入し、今川氏親を当主にしている。

のちに氏親と軍事行動をともにして今川氏の勢力拡大に貢献。並行して自らも伊豆・相模国へ進出して独立を果たし、北条家の戦国大名としての礎を築いた。


北条氏綱アイコン

北条氏綱(ほうじょう うじつな)

後北条氏2代目当主。

父・早雲の後を継ぐと、関東への勢力拡大路線も引き継ぐが、扇谷上杉氏や山内上杉氏、古河公方、甲斐の武田信虎や安房国の里見氏など、苦難続きであった。
早雲の代は伊勢氏を称していたが、氏綱の代には北条氏(後北条氏)へ改姓している。

今川氏とは早雲の代からはじまった姻戚関係をベースに良好な関係であった。しかし、今川家の家督争い・花倉の乱(1536年)で今川義元が当主となると、義元が武田信虎と手を結んだことで手切れとなり、今川領への侵攻を開始した(河東一乱)。

一方で古河公方・足利晴氏と姻戚関係を結んでいるが、今川との敵対関係が続く中で没した。


北条氏康アイコン

北条氏康(ほうじょう うじやす)

後北条氏3代目当主。

相模の獅子と称された文武両道の名君。

父の後を継いだ氏康は河東一乱の終盤の1545年(天文14年)に、西から今川氏、北から山内・扇谷の両上杉氏といった大勢力を相手に挟撃の一大危機を迎えている。

今川と和睦して難を逃れると、翌1546年の河越夜戦では、山内・扇谷の両上杉氏ら大連合軍が包囲していた河越城で圧倒的劣勢の中、奇襲によって勝利し、扇谷上杉氏を滅ぼしている。

以後、関東諸将との攻防は続いたものの、甲相駿三国同盟(1554年)の締結に至ったことで、敵対していた今川氏・武田氏と同盟関係となり、関東への侵攻に専念して勢力を拡大していった。


※NHK大河「おんな城主 直虎」にあわせた連載記事はこちら ⇒ 「井伊直虎」特集


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