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「今川×武田」の歴史:"昨日の敵は今日の友"。でも最後は?

戦国期における今川と武田の関係は、応仁の乱以後、武田氏が信昌・信恵方 vs 信縄の内訌となった時、両者の抗争も発生していたとみられる。この内訌に両者の支持勢力として、甲斐国衆や今川などの対外勢力が絡んで甲斐国内が乱国状態となったようだ。

やがて、信玄の父・武田信虎が当主になると、武田宗家はようやく統一となる。だが、甲斐国内は統一されておらず、信虎は甲斐国衆らとの戦いを余儀なくされていた。今川氏はこの甲斐国統一戦に介入しており、今川氏親、続いて氏輝の代において、両者は引き続き対立関係にあった。

だが、天文5年(1536)に今川家の家督争いで今川義元が当主になると、信虎は娘・定恵院を義元の正室に嫁ぎ、一転して両者は同盟関係となる。
のちに武田家は、武田信玄が重臣らとともにクーデターを引き起こして父・信虎を追放し、替わって武田当主となったが、武田・今川の同盟関係は維持している。

天文19年(1550)には定恵院が死去し、両者の結びつきが一時的に弱まるが、天文21年(1552)に信玄嫡男・義信と、義元の娘・嶺松院の結婚により、同盟関係が維持する運びとなった。

だが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにおいて、義元が尾張の織田信長に討ち取られると、今川氏真の代となってからは徳川家康をはじめとする家臣らの離反が相次ぐなど、没落の一途をたどっていった。
信長や家康の台頭によって対外情勢が変化すると、信玄は外交方針を転換して織田と同盟を結び、これに反発して謀反を企てた嫡男義信を廃嫡・自害に追い込んでいる。
これによって義信と嶺松院の婚姻が解消し、武田氏と今川氏はついに手切れとなった。

永禄11年(1568)、こうして信玄は家康と今川領を分割する密約を結ぶに至り、駿河侵攻を開始したのであった。

武田家の当主ほか・・

武田信虎アイコン

武田信虎(たけだ のぶとら)

武田信玄の父で、武田氏の第18代当主

信虎は甲斐国の統一過程で甲斐国衆と戦ったが、今川氏に属した甲斐国衆もあったことから、今川氏とは敵対関係にあった。

1536年(天文5年)に今川家の家督争いが勃発して新たな当主・今川義元が誕生すると、翌年には義元正室として娘を嫁がせて今川氏と同盟関係とした。

しかし、1541年(天文10年)に信玄のクーデターによって追放されると、義元を頼って駿河へ入った。追放後ははたびたび上洛して継続的に在京奉公を行っていたとみられているが、最期まで当主の座に返り咲くことはなかった。


武田信玄アイコン

武田信玄(たけだ しんげん)

甲斐の虎と称され、ライバルの上杉謙信と並ぶ名将

信玄は父・信虎を追放して武田家の当主となったが、既に姻戚関係にあった今川氏とは引き続き良好な関係を維持した。

今川氏と北条氏の長期にわたる戦い・河東一乱(1537-45年)では和睦を実現させた。その背景として、信玄はこの間の1544年に敵対していた北条氏と甲相同盟を締結しており、娘の黄梅院を北条氏康の嫡男・氏政に嫁がせている。

また、義元正室・定恵院の死去に伴って武田氏と今川氏の姻戚関係が一時的になくなったが、その後の1552年(天文21年)に嫡男・義信に義元の娘・嶺松院を娶らせ、再び姻戚関係としている。

しかし、1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、1567年(永禄10年)には謀反を企てたとして幽閉していた嫡男・義信が死去した。武田氏と今川氏の間には緊張が生じ、姻戚関係も解消される事態となった。

そして信玄は今川領への侵攻を企図。徳川家康と密約を結び、1568年(永禄11年)に駿河侵攻を開始したことで武田氏と今川氏は手切れとなった。このとき北条氏は今川氏を支援したため、信玄は自ら三国同盟を破綻させ、今川氏と北条の両氏を敵に回すという大きな外交路線の変更を実施したのであった。

この侵攻によって今川当主・氏真は駿府を追われ、その後、最終的に氏真は徳川家康の庇護下に入り、戦国大名としての今川氏は滅んだとされている。

信玄はその後、再度北条氏と同盟を結び、また、浅井・朝倉・本願寺などと手を結んで上杉謙信や織田信長を牽制することで、西上作戦と呼ばれる大規模な遠征を実施した。三河・遠江の徳川領を次々と制圧していったが、その途中で死去した。


武田義信アイコン

武田義信(たけだ よしのぶ)

信玄の嫡男。

1550年(天文19年)に元服し、今川義元の娘・嶺松院との結婚が決まった。武田氏と今川氏は姻戚関係にあって同盟関係にあったが、この結婚は同年に義元正室で信玄の姉でもあった定恵院が亡くなったことを受けてのものであった。

その後、初陣を果たし、川中島の戦いなどで武功をあげたが、1565年(永禄8年)には謀反を企てた首謀者とされて甲府東光寺へ幽閉された。嶺松院とは強制的に離縁させられて廃嫡にされた挙げ句、2年後の1567年(永禄10年)に死去した。


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