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今川義元の家紋と家系図:出自から家族・子孫まで丸ごと紹介!

足利将軍家の血脈を受け継ぎ、名門で知られる今川家。
本記事では、今川氏の家紋のほか、家系図をもとに出自から子孫まで、一族の歴史の流れ、今川一族の人物紹介など、大まかに一気に記していく。

今川の家紋は足利家と同じ

「御所(足利将軍家)が絶えたら、吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ 」

上記の逸話が伝わっているほど、足利一門の中で別格な存在だった今川家。どうやら家紋においても、将軍足利家が使用したものと同じものを使用したようだ。

「二引両」今川氏の家紋

二引両

「五七花桐」今川氏の家紋

五七桐

「五七花桐」今川氏の家紋

五七花桐

足利家は二引両と五七桐の家紋を使用していたとされている。

まずは二引両について。これは足利家の家紋であり、そのデザインは元々足利家の陣幕からきているらしい。そして2本の線は竜を示し、2匹の竜が天に昇ることを意味しているという。

次に五七桐紋だが、これは元々皇室専用の家紋であり、朝廷から賜ったものという。この紋は室町幕府で小判などの貨幣に刻印されてから、幕府や豊臣政権など様々な政府が用いるようになった。足利家が用いたほか、今川氏や斯波氏など多くの足利一門もこの紋の使用を許されていたという。
ちなみに足利氏はオリジナルで五七花桐も使用していたらしい。また、今川氏もまた、足利氏と少しデザインの異なる五七花桐を使用していたという説もある。

桶狭間を描いた「太平記大合戦」「尾張名所図会」などには、今川の旗印に"丸に二引両" や "五七桐" の紋が描かれているが、結局のところ、今川氏の定紋が二引両なのか桐紋なのかは定かではない。

今川のルーツをたどる

今川氏は足利将軍家の庶流にあたる名門の氏族であり、その祖は鎌倉時代の今川国氏(くにうじ、1243-82年)までさかのぼる。国氏は父・長氏から三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の今川の地をあたえられ、今川の姓を称した。
そして、国氏の孫にあたる3代目の今川範国( のりくに、1295?-1384年)が室町幕府の成立に貢献した結果、遠江と駿河の守護となった。ここに駿河今川氏が誕生したのである。

今川氏は3代範国以降、8代義忠まで一貫して駿河守護を努め、遠江・駿河・三河の各地に勢力を拡大していった。3代範国から5代泰範までは遠江守護でもあり、室町幕府下において足利宗家に寄り添い、政治・軍事的役割を果たした。
また、中央や公家とも多く交わり、文芸活動も行ない、室町幕府の永続のために活動していったのである。

ちなみに今川義元は11代目当主にあたる。

今川義元ファミリーの紹介

今川義忠アイコン

今川義忠(よしただ)

義元の祖父。今川家第8代当主。応仁の乱(1467年~)で細川勝元の東軍に属しており、遠江の攻略をねらって西軍の遠江守護・斯波義廉と敵対した。しかし、文明8年(1476年)に在地の一揆に襲われて無念にも戦死した。
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今川氏親(うじちか)

義元の父。今川家第9代当主。幼年のころに、父の突然死に見舞われたことで今川家の家督争いに巻き込まれた。叔父の北条早雲の助けを得て、同じ一族の小鹿範満を倒して晴れて今川家の家督を継ぐと、以後は早雲とともに勢力を拡大してのちに遠江国を平定。晩年は内政強化を図り、検地の実施や分国法「今川仮名目録」を制定するなど、戦国大名としての今川家の礎を築いた。
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寿桂尼(じゅけいに)

義元の母。公家の出自であり、氏親から氏真までの当主四代に渡り、政務を補佐した。特に氏親死後には後継者の氏輝が若年だったため、今川領国の経営に関する文書を発給するなど、一時的に当主の役割を果たしたことから「女戦国大名」「尼御台」等と称された。

義元の兄弟姉妹

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今川氏輝(うじてる)

義元の同母の長兄。今川家第10代当主。家督相続時はまだ14歳で病弱でもあったことから、母・寿桂尼が実権を握っていたが若くして弟の彦五郎と同日に突然死した。死因は謎で毒殺説・自殺説などの諸説がある。
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彦五郎(ひこごろう)

義元の同母の次兄。長兄の氏輝と同日に謎の死を遂げた。
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玄広恵探(げんこうえたん)

義元の異母兄。母は今川家臣の福島正成の娘と伝わる。今川家の家督争い・花倉の乱(1536年)で敗れて自害した。
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泉奘(せんじょう)

義元の弟。母は不明。幼少時から僧侶となり、のちに泉涌寺・唐招提寺の長老となる。また、筒井氏の菩提寺・伝香寺の中興開山にもなった。なお、義元の次男とする説もある。
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氏豊(うじとよ)

義元の弟。生母不明。今川家の家督争い・花倉の乱にも関わりがなく、一説に氏親の子ではなくて傍流ともいう。
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瑞渓院(ずいけいいん)

義元の同母妹。北条氏康の正室となった。北条氏政・氏照・氏邦・氏規の生母でもある。
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その他3人の女子

義元の妹たち。実名は不明。
  • 女子:生母不明。竹谷松平家当主の松平親善に嫁ぎ、のちに今川家臣・鵜殿長持の正室となった。
  • 女子:生母不明。中御門宣綱に嫁いだ。
  • 女子:生母不明。今川家臣・関口親永の正室となった。

義元の妻子

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定恵院(じょうけいいん)

義元の正室。武田信玄の同母姉にあたる。甲駿同盟(1537年)が成立したとき、18歳で義元のもとへ嫁がれた。
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今川氏真(うじざね)

義元の嫡子で、今川家第12代当主。
甲相駿三国同盟(1554年)の際に北条氏康の長女・早川殿を娶り、桶狭間(1560年)での義元死後は今川当主となるが、敗戦の影響で松平元康(のちの家康)をはじめとする家臣らの離反の動きが広がった。
次第に三河を家康に奪われ、のちに武田とも不和になると、家康と信玄が盟約を結んで駿河・遠江侵攻がされ、次々と攻略されて所領を失い、最期は家康の庇護下に入って戦国大名としての今川氏は滅亡した。
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長得(ちょうとく)

義元三男。幼年に出家して一月長得と称し、曹洞宗の僧侶となった。
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嶺松院(れいしょういん)

義元の娘。甲相駿三国同盟の一環として、武田信玄の嫡男である武田義信に嫁いだ。

義元・氏真の子孫はどうなったか?

今川氏の子孫をみていく前に、まずは今川一族の没落過程について簡単にみていこう。

今川滅亡への道は、永禄3年(1560)の桶狭間合戦での敗戦からはじまる。
この敗北で今川家に動揺が走り、松平元康(=のちの徳川家康)をはじめ、離反する家臣が相次いで徐々に弱体化。さらに同盟国の武田信玄が、今川の仇敵・織田信長と手を結んだ。

これを要因に武田・今川の同盟破綻につながると、永禄11年(1568)には、信玄と家康が密約を結び、駿河・遠江へ同時侵攻を開始。翌年に氏真は降伏。ここに今川滅亡となるが、本当に滅んだのではない。 氏真は助命されており、"戦国大名" としての今川氏が滅んだということである。

その後の氏真は、妻の実家の小田原に移り、義父・北条氏康の庇護下に入るが、元亀2年(1571)に氏康が没して北条・武田間の同盟が復活したため、追い出されてしまった。こうして氏真は家康を頼ってその庇護下へ入ることになる。

天正3年(1575)には信長と対面し、蹴鞠を披露したことで知られている。同年には徳川軍として長篠の戦いに従軍し、翌天正4年(1576)には駿河・牧野城(諏訪原城)の城主を任されたが、1年ほどで解任となった。その後は武田滅亡、信長の死、豊臣政権による天下統一、関ヶ原決戦、と時は流れ、氏真は浜松や京都で平穏に暮らし、慶長19年(1614)に江戸で没している。

義元以降の今川一族

さて、ここから本題の子孫をみていこう。以下、義元以降の今川家(嫡流)の系図とともに解説していく。

上記の系図に見えるように、氏真には4男1女の5人の子がいたと伝わる。まずは彼らの血統と歴代当主との関わりをみてみよう。

  • 嫡男範以の血統
    範以は父・氏真に先だって病没している。子の直房は13代当主となったが、男児にめぐまれず、2人の女児がそれぞれ上総国佐貫藩の松平勝広、下野国烏山藩大久保家初代の大久保忠高に嫁いでいる。 14代氏堯は、範以と氏真娘の両方の血脈を受け継いでいたが、子女はなかった。このため、嫡流としての範以の血統はここで途絶えた。
  • 二男高久の血統
    関ヶ原後まもなく徳川に出仕。はじめは今川を名乗っていたが、江戸の屋敷の地名から品川氏を名乗るようになった。将軍徳川秀忠の命により、今川の苗字は嫡流家以外は名乗りを許されなくなったという。
    今川嫡流家は実質、この品川氏が受け継いでいるといっても過言ではない。というのも、13代直房、14代氏堯に男児がおらず、15代氏睦以降は皆、品川氏の血統だからである。
  • 三男安信の血統
    西尾氏を称したというが、詳細はわからない。
  • 四男澄存の血統
    澄存は出家名であり、京都の熊野若王子住職となり、熊野三山修験道本山の奉行となったという。子女はいないらしい。
  • 氏真娘の血統
    吉良義定の室となる。14代氏堯は、この血脈と範以の両方を受け継いでいる。

さて、次に江戸時代以降の今川嫡流家の事績をみていこう。

晩年の氏真は、江戸幕府下において家康から近江国野洲郡(=滋賀県野洲市)に500石の知行地を安堵されていた。 氏真の死後は、孫の直房が13代当主として家督を継いでいる。氏真の子供たちは、氏真から和歌の知識や儀式の作法など、公家と盛んに交流したノウハウを学んでいたようだ。

13代直房は、氏真の生前から徳川秀忠に出仕し、やがて高家職(=儀式や典礼を司る役職)に就いている。高家職に就けるのは、主に足利一門や有力戦国大名の子孫など、名門の家格だけであったが、そこに今川氏も名を連ねたのだ。

直房は高家職として、伊勢神宮や日光東照宮への代参、公卿の接待役、朝廷への使者、その他細かい礼儀作法の指南役を務めるなど、朝廷と幕府の間における儀式で大きな役割を果たし、その存在感を示した。
家康を神と祀る日光東照宮は、正保2年(1645)に"東照社" から "東照宮" に改称されているが、直房は「宮」という高い格を表す称号を得るために、大老・酒井忠勝とともに使者として朝廷と交渉し、これを成功させている。この多大な功績により、500石を加増され、家禄は合わせて1000石となった。

以後も、今川氏は代々高家として徳川幕府に仕え、江戸時代を生き抜いた。ただし、歴代当主の中で高家職に就いたのは、13代直房、15代氏睦、19代義泰、20代義彰、21代義用、23代範叙の6名であり、他の当主は官位をもたない高家、いわゆる "表高家" であった。

氏真の血脈は、最後の当主となった23代範叙にもしっかりと受け継がれていた。そして彼は慶応4年(1868)、江戸幕府が終焉を迎える直前に高家職から若年寄に抜擢され、将軍徳川慶喜の助命嘆願などの交渉役を担っている。

明治維新後、範叙は新政府でも触頭(=旧幕臣と新政府との間の取次役)に就任。旧幕臣の多くが職を失う中、元高家という立位置と公家との繋がりが功を奏したらしい。だが、明治2年(1869)の版籍奉還によって知行地が没収となると、困窮していくことに・・。嫡子の淑人は早世し、長女は他家に嫁いだらしい。
そして明治20年(1880)、範叙の死によって今川宗家はついに途絶えてしまうのであった。

なお、直系は途絶えたものの、女系や傍系にも義元・氏真の血脈が幅広く受け継がれていることから、現在も多くの子孫がいるとみられる。


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