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今川義元の家紋・家系図

家紋

足利一門の中で別格な存在だった今川氏の紋は二引両と桐を使用したが、どちらが定紋かは定かではない。桐紋は室町幕府で小判などの貨幣に刻印されてから、幕府や豊臣政権など様々な政府が用いるようになった。

今川義元の家紋(五七花桐)
五七花桐(ごしちはなぎり)

足利氏の五七花桐とは模様が異なっている。

今川義元の家紋(五七桐)
五七桐(ごしちぎり)

足利将軍家が定紋として使用していたとされる。この他、今川氏を含めた多くの足利一門がこの紋の使用を許されていたという。

今川義元の家紋(二引両)
二引両(にひきりょう)

二引両。


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5分でわかる今川義元の生涯

家系図

今川氏は足利将軍家の庶流にあたる名門の氏族であり、その祖は鎌倉時代の今川国氏(くにうじ、1243-82年)までさかのぼる。

国氏は父・長氏から三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の今川の地をあたえられ、今川の姓を称した。
そして、国氏の孫にあたる今川範国( のりくに、1295?-1384年)が室町幕府の成立に貢献した結果、遠江と駿河の守護となり、ここに今川氏の初代当主が誕生したのである。

今川氏は初代範国以降6代にわたるまで一貫して駿河守護を努め、遠江・駿河・三河の各地に勢力を拡大していった。初代から3代までは遠江守護でもあり、室町幕府下において足利宗家に寄り添い、政治・軍事的役割を果たした。
また、中央や公家とも多く交わり、文芸活動も行ない、室町幕府の永続のために活動していったのである。

ちなみに今川義元は9代目当主にあたる。

今川一門

義元の父母

今川氏親アイコン

今川氏親(うじちか)

義元の父で今川家第7代当主。今川家を戦国大名化させた。

幼年のころに、父の突然死に見舞われたことで今川家の家督争いに巻き込まれた。叔父の北条早雲の助けを得て、同じ一族の小鹿範満を倒して晴れて今川家の家督を継ぐと、以後は早雲とともに勢力を拡大してのちに遠江国を平定。晩年は内政強化を図り、検地の実施や分国法「今川仮名目録」を制定するなど、戦国大名としての今川家の礎を築いた。

寿桂尼アイコン

寿桂尼(じゅけいに)

義元の母。女戦国大名の異名を持つ。

公家の出自であり、氏親から氏真までの当主四代に渡り、政務を補佐した。特に氏親死後には後継者の氏輝が若年だったため、今川領国の経営に関する文書を発給するなど、一時的に当主の役割を果たしたことから「女戦国大名」「尼御台」等と称された。

義元の兄弟

同母兄に氏輝と彦五郎がおり、生母不明の兄弟姉妹もいる。

今川氏輝(同母兄、うじてる)
義元の長兄で今川家第8代当主。家督相続時はまだ14歳で病弱でもあったことから、母・寿桂尼が実権を握っていたが若くして弟の彦五郎と同日に突然死した。死因は謎で毒殺説・自殺説などの諸説がある。
彦五郎(同母兄、ひこごろう)
長兄の氏輝と同日に謎の死を遂げた。
玄広恵探(兄、げんこうえたん)
母は今川家臣の福島正成の娘と伝わる。今川家の家督争い・花倉の乱(1536年)で敗れて自害した。
泉奘(弟、せんじょう)
幼少時から僧侶となり、のちに泉涌寺・唐招提寺の長老となる。また、筒井氏の菩提寺・伝香寺の中興開山にもなった。義元の次男とする説もある。
氏豊(弟、うじとよ)
生母不明。今川家の家督争い・花倉の乱にも関わりがなく、一説に氏親の子ではなくて傍流という。
瑞渓院(同母妹、ずいけいいん)
北条氏康の正室となった。
女子(妹)
生母不明。竹谷松平家当主の松平親善に嫁ぎ、のちに今川家臣・鵜殿長持の正室となった。
女子(妹)
生母不明。中御門宣綱に嫁いだ。
女子(妹)
生母不明。今川家臣・関口親永の正室となった。

今川義元の妻子

正室は武田信虎の娘・定恵院。

寿桂尼アイコン

定恵院(じょうけいいん、正室)

武田信玄の同母姉にあたり、甲駿同盟(1537年)成立のときに18歳で義元のもとへ嫁がれた。
今川氏真(いまがわ うじざね)
義元の嫡子で今川家第10代当主であり、武田家の血脈を受け継いでいる。
甲相駿三国同盟(1554年)の際に北条氏康の長女・早川殿を娶り、桶狭間(1560年)での義元死後は今川当主となるが、敗戦の影響で松平元康(のちの家康)をはじめとする家臣らの離反の動きが広がった。
次第に三河を家康に奪われ、のちに武田とも不和になると、家康と信玄が盟約を結んで駿河・遠江侵攻がされ、次々と攻略されて所領を失い、最期は家康の庇護下に入って戦国大名としての今川氏は滅亡した。
長得(三男、ちょうとく)
幼年に出家して一月長得と称し、曹洞宗の僧侶となった。
嶺松院(れいしょういん)
甲相駿三国同盟の一環として、武田信玄の嫡男である武田義信に嫁いだ。
隆福院
詳細不明

一門その他

今川義忠アイコン

今川義忠(いまがわ よしただ)

義元の祖父で今川家第6代当主。応仁の乱(1467年~)で細川勝元の東軍に属しており、遠江の攻略をねらって西軍の遠江守護・斯波義廉と敵対した。しかし、文明8年(1476年)に在地の一揆に襲われて無念にも戦死した。

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