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「小田原城の戦い(大槻合戦)」関東遠征にみえる謙信の驚愕の猛将ぶりとは!?
──永禄4年(1561年)

小田原城の戦いは、上杉謙信が越後から怒涛の勢いで進軍し、北条氏の本拠・小田原城にまで到達・包囲するまでに至った一連の戦いである。

現在の神奈川県小田原市にあった小田原城は、戦国時代に後北条氏の本拠地として君臨した城であり、北条軍が豊臣秀吉軍に対抗するために作られたといわれる広大な外郭を特徴としている。城の背後にある八幡山から海に向かって築かれた総延長9キロメートルと言われる土塁と空堀で取り囲まれ、後北条3代目の北条氏康のときに難攻不落の城として確固たる礎を築いた。

合戦の背景

長尾景虎(のちの上杉謙信)がこの小田原城を攻めるきっかけとなったのが、天文15年(1546年)に起きた河越城の戦いにまで遡る。この合戦は関東管領(=室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐する役)の上杉憲政と扇谷上杉氏当主の上杉朝定、そして古河公方の足利晴氏の三者による連合軍が北条氏康に敗れた戦いであり、この後、憲政は北条氏から圧力をかけられて次第に勢力を奪われ、やがて謙信を頼って越後まで逃れることになった。
なお、憲政が越後入りした時期については弘治3年(1557年)永禄元年(1558年)など諸説あって定かではないようだ

合戦の経過

こうした中、謙信は上洛して正親町天皇や13代将軍足利義輝に拝謁すると、憲政を補佐すべく後北条氏の討伐を計画。永禄3年(1560年)の8月には8千の軍勢を率いて越後を出陣した。

上野国に入った謙信は、軍事上の重要拠点と位置付けられ、北関東の要塞と呼ばれる沼田城を陥落。続いて岩下城・厩橋城を攻め落として厩橋城を関東遠征の拠点とすると、続いて那波城・羽生城も陥落させた。
氏康は、謙信の動きを知って武蔵国にある松山城に入るも、謙信の脅威に他国衆の寝返りが相次いで劣勢に立たされた。このため、同盟国の武田信玄、さらに、当時桶狭間合戦で織田信長に敗れて家中が混乱していた今川氏にも援軍を要請。

謙信軍の勢いが留まることはなかった。

氏康は本拠・小田原城での籠城策をとって松山城を退去。そして同年12月には、謙信の軍勢が古河御所をはじめ重要拠点となる城を次々に包囲したため、古河公方の足利義氏、玉縄城主・北条氏繁、滝山城主・北条氏照、河越城主・北条氏尭といった北条方の面々は氏康同様に籠城策をとることになったのである。

永禄4年(1561年)の2月になると、謙信軍は飛ぶ鳥を落とす勢いで侵略を進めていっている。

2月には古河御所、続いて下旬には武蔵松山城を制圧し、同月27日には謙信が鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げている。 その後、藤沢・平塚を経由して小田原城包囲へ。

謙信軍の先陣は3月3日に当麻(=神奈川県相模原市南区)、8日に中筋(=神奈川県中郡)と進み、14日に大藤秀信と大槻(=神奈川県秦野市)で合戦に及び、22日には曽我山(=神奈川県小田原市曽我)、24日はぬた山(=神奈川県南足柄市怒田)で合戦を繰り広げている。一方で謙信本隊も同月下旬までには小田原近辺に迫って酒匂川辺に陣を敷いたようだ。

この間、謙信は北関東の白井衆や惣社衆、厩橋衆など数多くの諸将を味方につけて大連合軍を築き上げ、その兵数は10万にも及んだという。

小田原城包囲

北条の本拠・小田原城には、太田資正の軍が攻め込んだものの、難攻不落の同城を攻め落とすことはできなかったらしい。 また、謙信軍が挑発のために城下に放火しても、北条方は城から出撃してくることはなかったともいう。
実のところ、この包囲戦の様子は、史料に乏しいことから詳細なことはわかっていない。

3月下旬の時点で、以下のように小田原を包囲する謙信らにとって不利な状況になりつつあった。

  • 長期遠征に対する不満の声が謙信軍の内部から漏れ始める。
  • 謙信の地元・越後でも関東への出兵や食料の輸送について紛争が勃発。
  • 武田の援軍が、現在の山梨県の東南にあたる甲斐吉田に到着。
  • 今川の援軍も出陣の準備が整いつつあった。

さらに、当時は関東では飢饉が相次いでおり、兵の食料も底をつき始めており、佐竹・小田・宇都宮氏らが撤兵を要求したという。加えて、松山城では上田朝直が謀反を起こすなど、大連合軍にほころびが見え始めていたようだ。

結局、謙信は小田原城のほか、玉縄城・滝山城・河越城も攻め落とすことができず、4月には大軍を引き上げて越後に帰ることとなる。謙信は越後への帰路の途中、寝返った松山城を攻め落として扇谷上杉家当主の上杉憲勝を城主として残している。

こうして10ヶ月にも及ぶ謙信の関東遠征は終息を迎えたのである。


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