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「松倉城の戦い」謙信の越中進出!
──永禄12年・元亀3年(1569,72年)

謙信に服属していた松倉城主・椎名康胤が武田信玄と手を結んだことをきっかけて勃発したという松倉城の戦い。天然の要害で越中三大山城の一つとして知られる松倉城を前に、軍神の異名をもつ謙信でも簡単に陥落させることができなかったようだ。

合戦の背景

越中国の椎名氏は、謙信の父・長尾景虎の代にすでに長尾氏(のちの越後上杉氏)に従属しており、松倉城主・椎名康胤の代には神保長職の攻勢を受けて既に衰退気味であった。

だが、康胤は謙信に支援を要請したことによって、永禄3年(1560年)には一旦、神保氏を富山の片隅に追いやっている。謙信と和睦した神保長職だったが、やがて武田信玄と共謀し、幾度となく椎名氏を圧迫して謙信と敵対・従属を繰り返す始末であった。

謙信からすれば、いずれ自らが平定する越中において、神保と椎名のどちらが勢力を伸ばそうとも関係なかったのだろう。こうしたことからか、椎名康胤は永禄11年(1568年)の7月に武田信玄と通じ、武田や越中一向一揆とともに反上杉の旗をあげている。こうして謙信は椎名を討つべく、松倉城攻めを行なうことになったのである。

合戦の経過

さすがの謙信でも天然の要害だった松倉城をすぐに落とすことはできなかったようだ。というのも、この松倉城攻めは永禄12年(1569年)元亀4年(1573年)の2度にわたって攻撃している。

1度目のとき、上杉方は越後から進軍。椎名方は地の利を生かして籠城戦をとった。戦力は上杉7、椎名3といったところであり、椎名が劣勢だったとされる。

だが、このときは椎名康胤に軍配が上がった。松倉城周りは木々に囲まれて進行の妨げになる天然の城壁だったこと、さらに同城は山頂にあったため、上杉軍は体力を奪われたところを城内からの反撃にあってしまったからである。さすがの謙信も持久戦を強いられ、最終的に不利と判断して撤退した。その後、上杉と椎名は和睦したとされている。

しかし、元亀3年(1572年)に信玄が西上作戦を開始すると、これを支援する加賀一向一揆勢力が越中に侵攻して謙信を牽制してきた。そして椎名康胤もこれに呼応して再び挙兵。2度目の合戦の幕開けとなる。

だが、野戦において椎名は謙信の敵じゃなかったようであり、椎名は謙信の反撃をくらって結局は松倉城に逃げ帰って籠城したらしい。その後、謙信は前回の反省を踏まえ、椎名氏に対して良い印象を持っていなかった民衆らを調略し、松倉城の周辺情報と食料と水の供給源を聞き出した。そして水路を決壊させることで水源を断ち、その後に陸路の食料の供給源を断つことに成功したという。

水と食料の供給源を断たれたことで成す術がない椎名方は、元亀4年(1573年)、ついに降伏・開城したのである。

戦後、椎名康胤と松倉城の行方は?

その後の椎名康胤がどうなったかは不明。一説に一揆方として砺波郡の蓮沼城(=富山県小矢部市蓮沼)に籠城しており、天正4年(1576年)に上杉軍に攻略されて自害したという。

松倉城は上杉方の城となったが、謙信が病没したのちは織田信長の手に落ちた。信長死後まもなく、一旦は上杉軍が取り戻したが、すぐに信長旧家臣の佐々成政に攻め落とされ、慶長年には廃城となっている。


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