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「七尾城の戦い」謙信、能登平定へ!
──天正4-5年(1576-77年)

七尾城の戦いは、畠山氏の本拠で知られる能登・七尾城を舞台にして、上杉謙信が攻め落とした戦いである。

能登国と畠山氏、織田と上杉

かつて能登国の守護として威勢をふるった管領畠山氏。戦国期には内紛によって衰退の一途をたどっていった。

永禄9年(1566年)には重臣らの反発によって当主・畠山義綱が、父の義続とともに追放。 その後も擁立された幼少の義慶が天正2年(1574年)に不慮の死を遂げるなど、家中は著しく不安定であった。畠山氏の事実上の権力者は、重臣の遊佐氏・長氏・温井氏・三宅氏・平氏などであった。

こうした中、天正4年(1576年)には上杉謙信が越中を平定、続いて能登国への進出を企てる。

一方、尾張の織田信長はすでに幾内を制圧し、15代将軍・足利義昭をも追放して織田政権を樹立しており、柴田勝家を北陸方面の指揮官に任命して加賀平定に着手していた。織田と上杉の関係といえば、互いに甲斐の武田氏を牽制し合う必要性があったことから良好な状態を保っていたが、この頃になって崩れさることになる。

信長の排除をもくろむ将軍義昭は、上杉・武田・北条を和睦させて反織田勢力の結集を図った。この甲相越一和(三者間の調停)は失敗したものの、信長と謙信の関係に亀裂が走るきっかけとなった。

一方、時を同じくして、信長に追い詰められていた石山本願寺の顕如が、長年にわたって対立し続けてきた謙信に救援を依頼。さらには信長に数万人の同志を虐殺された越前一向宗の残党も、命からがら謙信に助けを求めてきた。そして、信長勢力に危機感を感じた謙信は、ついに石山本願寺との同盟を決意し、反織田勢力に加わったのである。

ところで織田と上杉に対して、畠山氏はどのような立場をとったのだろうか?

実のところ、畠山家中では親上杉派と親織田派に分かれて激しい対立があったとされる。すなわち、長綱連は信長に期待し、遊佐続光は謙信を頼ったのである。こうした中、謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするが、畠山氏としては結局謙信との対決姿勢を明らかにした。

第1次七尾城の戦い

同年11月、謙信は畠山氏を討つべく、2万の兵を引き連れて七尾城へと侵攻。七尾城内では、老臣筆頭の長続連(ちょうつぐつら)が2千の兵で籠城。続連が大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口を担当し、上杉軍の背後を狙って領民達による一揆を扇動した。
これに対して謙信は、長い間一向一揆に苦しめられてきた経験から一揆に対する情報網が出来ており、全ての一揆を鎮圧。 しかし、日本五大山城の一つに数えられている難攻不落の七尾城を容易に陥落させることはできなかった。

この城は石動山系の北端の尾根上に建てられ、標高300mの高さにあった。尾根から枝分かれする7つの尾根の急峻複雑な地形を巧みに生かし、東方に長屋敷、西方及び北方にかけて西の丸、二の丸、三の丸を始めとして、多数の砦が構築されていたのだ。

この巨大な要塞を前にして、攻めあぐねていた謙信はついに七尾城攻めを中止し、先に支城を攻略する作戦に転じたのであった。 謙信はあっという間に支城を攻略し、七尾城を孤立させる事に成功するが、それでも畠山方は降伏しなかった。

第2次七尾城の戦い

年を越して天正5年(1577年)の3月になると、北条氏政が北関東方面に出兵したため、謙信は制圧した城、すなわち熊木城・黒滝城・穴水城・甲山城・富来城などに家臣を配置して越後へと帰国。すると、畠山軍はこれに乗じてすぐさま反撃を開始し、熊木城や富来城の奪還に成功している。


だが、閏7月に謙信が再び能登に出陣してくると、慌てた長続連らは奪還した支城を放棄して再び七尾城へと籠城。大勢の領民に徹底抗戦を呼びかけて1万5千ほどの兵力になったようだ。

さらに長続連は信長の援軍を得るべく、息子の長連龍を使者として安土に派遣。8月8日には柴田勝家を総大将とした織田の援軍が能登へ向かうことになった。

だが、この時期は、大人数での籠城に適さない”真夏”という最悪の時期であった。水はあっという間になくなり、食料も腐敗。糞尿の処理もままならない不衛生な環境に陥って、城内で疫病が蔓延したという。幼少の当主・畠山春王丸もその犠牲となり、おまけに当てにしていた織田の援軍もいつになってもやって来なかった。これは謙信が事前に察知して、加賀の一向宗に進路妨害を依頼したからである。

畠山氏に勝機はなくなり、もはや七尾城の落城は時間の問題となった。混乱の最中、かねてから親上杉派であった遊佐続光が温井景隆や三宅長盛兄弟らと結託して上杉方に内応。9月15日の夜には城内で反乱を起こし、開城して上杉軍を招き入れた。このときに親織田派の長続連・綱連父子、綱連の弟や幼い子供らが無残にも殺害されている。

こうして七尾城は能登国と共に謙信の手に落ちたのである。

なお、七尾城が陥落した後も、これを知らない柴田勝家率いる織田の援軍は七尾城に向けて進軍を続け、準備万端で待ち構えていた上杉軍と手取川の戦いで衝突。織田の敗戦となっている。


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