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「仙洞院(仙桃院)」家中の後継者争いに翻弄された謙信の姉

仙桃院の肖像画
仙洞院は上杉景勝の母、かつ上杉謙信の異母姉にあたる人物としてよく知られている。本記事では、女性の身でありながら政略結婚や実子の上杉家相続など、上杉家の運命を大きく左右した彼女についてみていく。

謙信の異母姉

仙洞院は「仙桃院」や「綾」とも呼ばれ、越後(新潟県)の守護代である長尾為景を父に持つ。一方で母方は越後守護職であった上杉家の出身であり、その上杉家を越後守護代として代々支えていたのが父為景の家系・府中長尾氏なのである。

父為景の時代における越後国は、豪族たちの内乱が多く、為景は鎮圧するのに苦労していた。天文11年(1543年)の為景死後は、彼の嫡男である長尾晴景、そして二男の上杉謙信へと平定作業が引き継がれていくことになる。
為景の跡を継いだ晴景は越後国の内乱をうまく抑えることができずにいたが、一方で晴景をサポートするために還俗した謙信は次々と反乱を鎮めていくほど、合戦の才能に秀でた人物であった。このため、家臣の中には弟の謙信を擁立しようとする動きが出てくるようになり、家中が徐々に分裂状態に・・・。結局、越後守護の上杉氏の仲介により、天文17年(1548年)に晴景が謙信に家督を譲ることになる。

この相続に関して不満を持っていたのが、遠縁にあたる長尾政景である。もともと晴景派だった彼は、天文19年(1550年)に謀反を起こすが、翌年には謙信に降伏して和睦条件として仙桃院が政景に嫁ぐことになった。このことにより、以後は両長尾家での争いはなくなり、政景も謙信に忠節を尽くすようになった。やがて越後国は軍神の異名をもつ謙信の力によって統一されることになる。

なお、仙洞院は政景との間に二男二女をもうけている。長男の義景は10歳で早世したが、次男の顕景(のちの上杉景勝)は実子のなかった謙信の養子となった。また、長女の清円院が上杉景虎に、次女が畠山義春に嫁いでいる。

後継者争いに苦悩

上杉家に再び内部分裂の危機が訪れるのは、謙信死後のことである。

謙信の後継者候補といえば、2人の養子、1人は長尾政景と仙洞院の実子である上杉景勝、もう1人は北条氏康の七男である上杉景虎である。謙信にとって景勝は姉の子供、景虎はかつての自分の名前である "景虎" を与えるほどに気に入っていた人物であり、 後継者をどちらにするのかは決めかねていたのかもしれない。謙信が生前に後継者を指名していなかったことが災いとなり、家中が景勝派と景虎派に分かれて再び分裂し、後継者争いが勃発してしまったのである。(御館の乱)。

景虎はこの戦いで春日山城を退去して御館に籠もることになる。景虎正室という立場から長女清円院も景虎に従い、このとき仙洞院もお供して御館に入っている。結果的にこの跡目争いは景勝の勝利に終わったが、その際に清円院と景虎が運命を共にして自害したことに仙洞院は大きく心を痛めたに違いない。乱の終結後、仙洞院は春日山城に戻っている。

最期まで上杉家と共にした生涯

その後の上杉家は天下人となる豊臣秀吉に臣従。やがて景勝は豊臣政権下において五大老の地位につくほどになった。こうした中、仙洞院も慶長3年(1598年)には会津、慶長6年(1601年)には米沢へというように、上杉家の移封にともなって景勝に付き従い、最期は慶長14年(1609年)に米沢の地で生涯を終えた。


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