丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「新発田重家」恩賞問題で不満爆発!上杉家に背く。

上杉謙信の家臣でありながら謙信の死後、上杉家に背いて上杉家と戦った新発田重家。彼はどのような理由で上杉家に背いたのか。そして彼の運命はその後どうなったのだろうのか。そこには上杉家の問題点が背景にあった。

初めから独立心が強かった

天文16年(1547年)、重家は新発田綱貞を父として越後国に産まれた。

父綱貞は北越後の阿賀北衆と呼ばれる国人集団の一人であり、重家はすでに兄が新発田家の家督を継いでいたため、同じ阿賀北衆の五十公野家の養子に入り、"五十公野治長" と名乗っていた。

この阿賀北衆というのは戦国時代において上杉家の軍事の中核を担っていたのだが、元々独立心の気風が高い国人たちが多く、特に上杉謙信が家督を継ぐ前は長尾氏や越後国の守護大名とたびたび対立するなど越後国の不安定な政情の原因となっていた。重家の世代ではすでに上杉謙信の家臣団に取りこまれてそのような性格は薄くなっていたものの、このような気風が重家にもしっかりと受け継がれていたことは間違いないだろう。

上杉家の反逆へ

重家は川中島の戦いや関東出兵など上杉氏の家臣団として上杉家の主要な戦いに参加しているが、やがて彼の人生の大きな転機となる一つの事件が起こる。元々上杉家は上杉謙信のカリスマ性によって国をまとめている勢力であったが、その謙信が天正6年(1578年)3月13日に急死したのである。

当時謙信に子供はおらず、後継者候補である2人の養子、すなわち上田長尾家出身の上杉景勝と、相模の北条氏康の七男・上杉景虎がいたが、謙信はどちらを後継者にするのかを決めずにこの世を去ってしまった。そのため、謙信死後に両者は上杉家の家督を争い、内戦を行い始めた。

これがいわゆる御館の乱であり、重家は景勝側について景虎派の国人を攻略したり、乱に乗じて越後に侵攻してきた蘆名盛氏・伊達輝宗連合軍を退ける等景勝派の勝利に大きく貢献した。最終的にこの家督争いが終結したのは、天正8年(1580年)となるが、同年に新発田家では兄が早世したため、家督を継いでここでようやく"新発田重家"と名乗ることになる。

御館の乱において活躍した重家だが、戦後に彼に与えられた恩賞はほとんどなかった。景勝は重家が得られるはずであろう恩賞のほとんどの配下の上田衆に与えていたのである。

このような状況を見て蘆名盛氏の後継者である蘆名盛隆と伊達輝宗はこの仕打ちに不満を募らせていた重家に反乱工作を仕掛け、それに乗った重家は天正9年(1581年)6月16日、新発田家一門衆や加地秀綱、さらには敵の敵は味方、昨日の敵は今日の友の論理で御館の乱で景虎派についた国人を味方につけ新潟津(今の新潟県新潟市)を落とし上杉家から独立。上杉家の公然と反旗を翻した。

乱の長期化

この重家の反乱に初期段階で景勝はあまり積極的な行動を取れなかった。

というのも、この当時、織田家の柴田勝家が上杉領内の越中に攻勢を強めており、重家だけに手が回らなかったのである。ようやく翌天正10年(1582年)の2月に重家に対する攻勢をかけるもののあっけなく撃退され、あろうことか景勝は反乱を扇動した蘆名家に重家を背後から攻撃をするよう依頼してしまう。その結果、逆に蘆名氏が重家の介入を強めてしまい、重家の反乱の長期化につながった。また、重家討伐を任せていたはずの本庄繁長を出羽の最上氏との戦いに投入させるなどしていたことも、重家の反乱を長引かせてしまった原因だった。

こうした中、同年6月に織田信長が本能寺の変に倒れた。だが、織田家の脅威が薄れた後も、今度は織田領の甲斐・信濃・上野国を巡る争乱が勃発し、景勝は北条氏や徳川氏と3つ巴の戦いを繰り広げたことで、事実上重家に対する対策をとることはできなかった。

重家は天正11年(1583年)の8月に放生橋の戦いで上杉軍に大勝し、翌年の水原城の戦いでも結果的に水原城の防衛に成功するなど、上杉家との直接対決でも当初の戦局は優位に進めていた。

暗転と敗北

しかし、その状況を一変させる出来事が天正12年(1584年)10月に起きる。重家に助力していた蘆名氏の当主である蘆名盛隆が家臣によって殺害される事件が発生したのである。

天正13年(1585年)には伊達氏と蘆名氏の間の戦争が行われ、重家は後ろ盾を完全に失ってしまう。一方、景勝はこの間にのちの天下人となる羽柴秀吉に臣従し、重家に対して秀吉の支援を引き出すことに成功。
同年11月20日に重家の重要拠点である新潟城が景勝家臣の藤田信吉の調略によって上杉方の手に落ちると、天正15年(1587年)夏にはついに居城である新発田城が景勝軍に包囲。同10月25日、重家はついに城を打って出て上杉軍に突入し、最期は自害となった。享年41。

重家の乱は上杉家の衰退を決定づけたもので、景勝は秀吉の支援を受けてようやく重家の反乱を鎮圧することができた。この戦いによって上杉家は秀吉傘下の大名としての地位が確立し、その後上杉家は秀吉の威信を背景とし、中央集権化された近世大名としての第一歩を踏み出すこととなる。


 PAGE TOP