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上杉謙信の名言・逸話25選

謙信の身なり・嗜好・思想

修行(謙信13歳)

謙信がまだ13歳のとき、「わしは父のおかげで一国を保つ身分になれたが、普通こうはいくまい。親のおかげでそうなった者は苦労が足りないから、物事の善悪もわからないだろう。善悪の区別がつかぬようでは何かにつけて困る。」といい、1年間行者とともに、奥州・出羽・関東ほか諸国を修行してまわったという(『甲陽軍艦』)。

毘沙門天の化身

謙信はいつも熱心に毘沙門天を信仰し、本陣の旗印にも毘沙門天の「毘」の文字を記していた。

あるとき、隣国で一揆が起きて急ぎで密偵を遣わすことになった。謙信は老臣に対し、毘沙門堂へは連れて行かずに自分の前でその密偵に誓いをたてさせるように命じた。

このとき「わしを毘沙門天と思え」と老臣らに言い放ち、密偵に誓いを立てさせてから出発させたという(『名将言行録』)。

戦う理由

依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ、 ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す(『白河風土記』)

「私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す。」といった意味。これは謙信が他国の武将を助けてまで戦う理由として述べた言葉。謙信が武田信玄と川中島の戦いでの激闘を繰り広げたのは、信玄の侵略を受けた村上義清が謙信を頼ってきたことにあったのである。

五常が規範

大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、 慈愛をもって衆人を哀れみ(『北越軍談 謙信公語類』)

「大将という者は、仁・義・礼・智・信の五常(=儒教で説く5つの徳目)を規範とし、慈愛の心をもって領民を大切にする」といった意味。

天の時、地の利、人の和

天の時、地の利に叶ひ、人の和ともに整ひたる 大将といふは和漢両朝上古にも聞こえず、 末代有るべしとも覚えず(『北越軍談 謙信公語類』)

「"天の時"、"地の利"、"人の和"の3つがすべてが揃う大将というのは、過去の日本や中国においてもおらず、未来においても出てこないだろう」といった意味。

儒教で「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」とされている。つまり、天の与える好機も土地の有利な条件には及ばず、土地の有利な条件も民心の和合には及ばないのである。

いつも違う格好?

信玄は人を潜入させて謙信の様子をうかがわせた。謙信は日ごとに身なりを変えており、結局最後まで決まった服装というものがなかったという(『名将言行録』)。

中国の韋叡を倣う

謙信は背が高くなく、左の足にむくみがあるせいか、歩く時は引きずるようであった。また、戦では具足を付けたり、采配(指揮するために振る具)を持つことは少なく、黒い木綿の陣羽織を着て、鉄製の小さな車笠をかぶり、三尺ばかりの青竹を杖のように持って指揮したという。
これは中国の梁の韋叡(いえい)に倣ったものであり、彼は北魏を攻めた時、素木の輿に乗り、白角の竹の如意棒を持って指揮を執っていたという(『常山紀談』『名将言行録』ほか)。

源義経に学ぶ

謙信はいつも「わしは武略を義経に学んだ。他の人々は平家琵琶を昔物語として聞いているから自分の役にたたないのだ。わしは義経の武略のところを自分の身にあてはめて聞き、自分とくらべているのだ」と言っていたという(『名将言行録』)。

なぜ独身だった?

謙信が「我、国に望みなし」といって出家して"宗心" と号して高野山へ向かったが、家臣に諌められたとき、「兄(=晴景)を殺害して世嗣を断ったから、自分も世嗣を断つ」と家臣らに誓ったという。そして兄を殺めたことを懺悔して性欲を絶ったという。
また、このほかに、兄・晴信の家を奪うことになると考えたため、一生女を近づけなかったともいう。(『北越軍記』)

酒好き

いつも上杉景勝直江兼続・石坂検校らと酒を飲んだといい、肴はいつも梅干しだけだったという(『名将言行録』)。

まさに軍神!

蛟竜(謙信18歳)

府中長尾家家中で兄・長尾晴景との間で抗争が起きたとき、景虎(のちの謙信)は晴景派の長尾政景と戦って見事に勝利し、主君・上杉定実に戦いの一部始終を述べた。

このとき定実は周囲の者に「あれはまさに蛟竜(こうりょう。=姿が変態する竜種の幼生)だ。ひとたび風雲をえた暁には、狭い地中を脱して天空高く舞い上がる人物だ」と言ったという(『名将言行録』)。

敵の大軍の中に突入(謙信30歳)

永禄2年(1559)、下野国の栃木城(唐沢山城)が北条の大軍に攻囲された際、救援に駆け付けた謙信は、「戦うことなく栃木城へ入るしかない」と、運を天にまかせ、わずかな主従を引き連れて甲冑もつけずに敵中に突入。北条軍はその迫力にただ茫然と見つめる中、謙信は一戦も交えずに城門まで兵を進めて入城したという。

弾丸をも恐れず(謙信32歳)

永禄4年(1561)の小田原城包囲の際、謙信は蓮池まで攻め入って弁当を取り寄せてお茶を飲んでいた。そのとき、敵の城兵が50メートルくらいの距離から景虎めがけて鉄砲で数回撃ったが、左の袖や鎧の鼻に弾丸があたっただけで身体は無事であった。
このとき、全く動じずに茶を飲んで悠々閑々としていたという(『名将言行録』、『松隣夜話』)。

凶暴!?

謙信は初対面の東国の武士だろうと、相手の気持ちなど考えずに諸将の陣営に馬で乗り入れ、兜もなしに白い布で頭部を包み、人を虫とも思わぬ振る舞いようであった。この様子に諸将らは謙信に恐れをなし、どんなに良将であろうと謙信のような人物を主君としたならば、自分の首が飛ぶだろうと思い、嫌な気持ちにならない者はいなかった。
大将がこのように荒々しいと、下の者は順応しないと兵法でもいわれるが、まさにこのことであろう(『松隣夜話』)。

関東の諸将ら、謙信を避ける

謙信は毎年50~70日ほど、武蔵・上野・下野を往復したが、敵城はみな門を閉じており、ましてや戦う者などは皆無であった。敵はいうまでもなく、味方の大名や国衆らも往復ついでに攻め取られるのではないかと心配で仕方なかった。
謙信が越後に帰る際に上野猿ヶ京を通り過ぎたと聞くと、関東の敵味方みながホッとするのである。
・・それは大雨や大雷鳴が過ぎ去って、空が晴れ上がったときのように喜んだという(『名将言行録』)。

義の男

2回目の上洛時(謙信30歳)

謙信は、朝廷から官位を賜ることを望み、戦国の世で武道に専念するのを理由に上洛して将軍家に見参しないことを武門の恥と考えていた。そして永禄2年(1559)4月に敵方の隣国に使者を送って上洛の旨を伝え、わずか2800の兵で敵国を通って上洛を果たして13代将軍足利義輝に謁見し、三管領や将軍家一門に準ずる待遇を与えられたという(『名将言行録』)。

敵に塩を送る(謙信38歳)

我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。(『武将感状記』)

「我は軍兵をもって戦いを決する。塩をもって敵を困窮せしめる事などはしない。」という意味。

永禄10年(1567)、武田信玄と今川氏真が同盟破棄となった後、氏真は北条氏康と謀って武田領国への塩の輸送を全面禁止した。信玄の領国である甲斐・信濃は山国で塩が取れなかったため、塩がなければ死活問題であったのである。

謙信がこれを聞いたところ、姑息な手段を取るべきでないとして、武田領に塩を送るように家臣に命じたという。
このエピソードにおいて、上記のような謙信の名言とともに、「敵に塩を送る」ということわざも生まれた。

信玄の死(謙信44歳)

天正元年(1573)、北条氏政の使いの者から信玄の死を聞いたとき、謙信は春日山の水門で気分よく湯漬けを食べていた。
しかし、報を聞くと箸を捨てて口の中のものを吐き出し、「ああ、残念なことをした。名大将を死なせたものだ。英雄人傑とは、この信玄のような人物をこそいうのだ。関東の武人は柱を失ったも同然。まことに惜しいことだ」と言って涙したといい、その後、三日間は音楽を禁じたという(『名将言行録』)。

武田が弱体化したとき

人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。

これは武田勝頼が長篠の戦いで敗北したとき、上杉家臣が謙信に武田氏を攻めるよう進言したときに返した言葉。謙信はこれ以後、武田領へ攻め入ることは一切しなかったのである。

敵の刺客を許す

謙信は越中神保氏と戦い、しばしば勝利していた。勝てないと悟った神保氏はある時、高木左伝という16歳の若者を、神保家で罪を犯したという理由での追放を装い、謙信の元で仕えるようにさし向け、隙を見て刺殺するよう命じた。
謙信は左伝を身辺に近づけなかったが、1年あまりが過ぎた頃、左伝を呼び出して「そちは神保がまわした刺客だ。わしはとうに知っていた」と言い、罪を許すから主君の元へ戻るように伝えた。それを聞いた左伝は不首尾に終わることを感じ取って自害。
謙信は彼の忠死を惜しんで涙したという(『名将言行録』)。

"監禁"という配慮

鉄砲の先へ出し、手を負はせ候とも、撃ち殺させ候とも、定めてその時は、この入道をならでは恨みまじく候間、一旦、追ひこめ申し候。(『吉江文書』)

「鉄砲の先へ与次(=中条与次景泰のこと)を出して負傷させても撃ち殺させるにしても、その時は、この輝虎入道謙信ばかりを恨むであろうから一旦は監禁させたのだ。」という意味。

謙信が加賀一向一揆を攻めていたとき、家臣・吉江景資(よしえ かげすけ)の子の与次が血気にはやり、味方の鉄砲隊の先を駆け歩こうとしたが、謙信は与次を捕まえて監禁したという。
これはその監禁の理由を父である吉江景資に報告した謙信直筆の手紙の一節である。

謙信の教え

春日山壁書

「春日山壁書」とは、謙信が居城の春日山城内の壁に掲げた心得である。以下に有名なものを記す。

  • 運は天にあり、鎧は胸にあり、 手柄は足にあり(『春日山壁書』)

    「合戦での生死は天に任せ、心身を堅固にし、手柄は足を動かして臨むことにあり」といった意味。

  • 何時も敵を掌中に入れて合戦すべし、 疵つくことなし(『春日山壁書』)

    「常に敵の情報を収集するなどして、敵を掌中に収めて合戦に臨めば、負けて傷付くことはない。」といった意味。

  • 死なむと戦へば生き、生きむと戦へば 必ず死するものなり(『春日山壁書』)

    「合戦の際、死ぬ気で臨めば生き、死を惜しめば必ず死ぬものだ。」といった意味。

宝在心

「宝在心」とは、謙信が遺した心の持ち方に関する十六ケ条の家訓である。"宝は心に在り" を意味し、この家訓は今も、謙信が祀られている上杉神社に碑となって残っている。

  • 心に物なき時は心広く体泰なり

    「心に何もなければ、広い心で体もゆたかである」の意。

  • 心に我儘なき時は愛敬失わず

    「心に我がままがなければ、愛嬌を失わない」の意。

  • 心に欲なき時は義理を行う

    「心に欲がなければ、義理を重んずる」の意。

  • 心に私なき時は疑うことなし

    「私心がなければ、他人を疑うことをしない」の意。

  • 心に驕りなき時は人を教う

    「心におごりがなければ、人を敬う」の意。

  • 心に誤りなき時は人を畏れず

    「心に誤りがなければ、人をおそれない」の意。

  • 心に邪見なき時は人を育つる

    「心に間違った見方がなければ、人を育てる」の意。

  • 心に貪りなき時は人に諂うことなし

    「心にむさぼりがなければ、人にへつらう必要がない」の意。

  • 心に怒りなき時は言葉和らかなり

    「心に怒りがなければ、言葉遣いもやわらかだ」の意。

  • 心に堪忍ある時は事を調う

    「心に忍耐があれば、物事が円満になる」の意。

  • 心に曇りなき時は心静かなり

    「心に曇りがない時は、穏やかである」の意。

  • 心に勇みある時は悔やむことなし

    「心に勇気があれば、悔やむことはない」の意。

  • 心賤しからざる時は願い好まず

    「心が賤しくないなら、願い事もしない」の意。

  • 心に孝行ある時は忠節厚し

    「心に孝行心があれば、忠節の念が厚い」の意。

  • 心に自慢なき時は人の善を知り

    「心にうぬぼれがなければ、人の良さがわかる」の意。

  • 心に迷いなき時は人を咎めず

    「心に迷いがなければ、人を咎めない」の意。

その他の名言・逸話

謙信の評価

『甲陽軍艦』によれば、謙信は将来不利となることには気にせず、目の前にある合戦を避けようとはしない。これは水の出た川を無理に渡ろうとするのと同じやり方だという。
また、有力な敵と戦った際には粗雑な退却ぶりを見せて、敗戦も経験している。しかし、信玄に対しては強引に攻勢にでてきた、と伝える。

死因の各諸説

謙信は大の酒好きで、酒の肴に味噌や梅干などの塩分を過剰摂取していたことから、これらを原因とする脳溢血が定説のようである。

この説のほか、胃癌(または食道癌)と脳卒中が併発したとする説、織田信長の刺客に槍で刺殺(または毒殺)されたとする説、謙信女性説を前提とした婦人病で亡くなったとする説などがある。

辞世の句

四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒(『上杉年譜』)

「49年間の我が生涯は一睡の夢のようであった。この世の栄華はむしろ一杯の酒であった。」という意味。

極楽も 地獄も先は 有明の 月ぞ心に かかる雲なき(『名将言行録』)

「死後の世界が極楽だろうと地獄だろうと、今は何も心にかかるものはない。」という意味。


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