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直江兼続の名言・逸話15選

直江兼続の銅像

兼続の幼少期

仙桃院に見出される

幼い兼続は父兼豊に連れられて、よく坂戸城に出入りしており、ハキハキして行儀も良く、利発な行動をする子供だったゆえ、仙洞院の目にとまった。才能を見込まれた兼続は、仙洞院に喜平治(のちの上杉景勝)の近習として立派になれると判断され、5歳年上の景勝と出会うことになるのであった。

武田の使者の密命を見破る!

上杉謙信は以前、武田信玄からの使者として岡田賢桃斎に会っており、賢桃斎が和歌に関心があることを知っていたので、越後国の名所・長浜を案内しようとしたときのことである。

しかし、実は賢桃斎は武田信玄から越後や佐渡の要地の距離を測る密命を受けており、召し連れている子供らに投輪で遊ばせるふりをしながら測定し、これを信玄への土産に持ち帰ったのである。

のちに信玄から謙信に越の長浜の距離を聞いてきた。そこで謙信は代官に検地させようとしたが、その代官の配下の若者の一人が「それはなんのためにするのですか?武田からの依頼ならばその必要はなく、すでに投輪で測って知っておりましょう。」と答えた。これを代官から伝え聞いた謙信はその時点ではじめて賢桃斎の真意に気づき、その後、その代官の配下の若者を小姓に取り立てたのである。

この小姓というのが "直江兼続" なのである。

謙信の死を予言

謙信の死の少し前、謙信の余命は少ないのではないかと気にかけ、家中の諸将らにその理由を語ったという。兼続が心配したとおり、まもなくして謙信は没した。

豊臣政権期

墜水の会

天正13年(1585)に、羽柴秀吉が石田三成らわずかなお供を連れて越後の国境・墜水城下を訪れた。上杉の城将・須賀修理亮に会った秀吉は、自ら正体をさらして上杉景勝との対面を依頼したが、突然のことで驚いていた須賀修理亮は、「用件を仰せられれば景勝殿へ取り次ぎましょう」というと、「人を介しての用なら、なにも自ら来ぬわ」と言って秀吉は用件を言わなかった。須賀は糸魚川城にいる景勝に急使を送り、報を聞いた景勝と兼続の2人は疑ったが、秀吉なら少数での訪問もあり得なくもないと考え、面会することにした。

秀吉が本物だと悟った須賀修理亮は、兼続らに会うと、討ちとる事を進言するが、このとき兼続は声を荒げて一喝したという。 「今、秀吉が単身同様で乗り込んで来たのは上杉の義を信じてのこと。それを一戦に及ぶこともなく討ち果たしたとなれば、囚人を殺したのと同じ。そうすれば、いやしくも亡き謙信公の名跡を継ぎ、義を守ってきた上杉が、不義の悪名を着せられる。わかりますな。」と。
こうして、秀吉・三成 vs 景勝・兼続の会談が実現することになった。

伊達政宗をあしらう

あるとき、聚楽第で諸大名が並んでいる中で伊達政宗が金銭を皆に見せていた。当時、貨幣は出始めたばかりで珍しく、政宗に「これをみられよ」と声をかけられると、兼続は扇の上に金銭を置き、羽根つきをするようにして見ていた。
政宗が「気にせず手に取ってみられるがよい」と言うと、兼続は「このように賤しいものに触れては手が汚れるゆえ、扇にのせたわけです」と答え、政宗のほうにポイっと投げて戻した。これに政宗はひどく赤面したという。(『名将言行録』)

秀吉の評価

秀吉は「陪臣の中でも、直江兼続・小早川隆景・堀直政らは天下を収める立場に立っても見事にやってのける者だ」と言ったという。

秀吉に意見を求められる

天正18年(1590)の豊臣政権による小田原征伐で、数カ月たっても落城できなかったころ、兼続は秀吉から意見を求められた。このとき兼続は、秀吉が豊臣方の諸将らの士気を上げる目的であることを察しての意見を言うと、秀吉は大変喜んで兼続に太地と時服を与えたという。

閻魔大王への手紙

慶長3年(1598)、上杉の家臣が何の落ち度もない下男(下僕・雑用)を、ふとしたことから成敗してしまった。これに親族は当然のごとく怒り、兼続も言い分はもっともだと思い、親族に白銀を与えて弔うように諭したが、親族は納得せずに「死者を生かして返してくれ」と詰め寄った。

仕方なく兼続は一枚の高札をつくり、親族に「そなたらの願い通り、死者を生き返らせよう。ただ冥土へ迎えに遣わす者がいないので大儀であるが、訴人である兄と伯父の2人で、この高札を持って閤魔王の庁へ参り、申し受けてきてくれ」と言い渡し、彼らを成敗してしまい、そこに高札を立てた。

その文にはいわく
「いまだ御意を得ず候えども、一筆申し入れ候。下男不慮の儀につき相果て候。親類ども嘆き候いて呼び返してくれと申すにつき、2人の者を迎えに遣わせ候。死人をお返しくださるべく候。恐々謹言。直江山城守兼続。閤魔大王殿」

堀直政の要求を拒否

慶長3年(1598)、堀秀治が国替となって越前・北ノ庄から越後・春日山にきたとき、旧領の越前では年貢の既収分は新領主に引き継いできたが、越後では上杉景勝がすでに半年分の年貢を先取りして会津へ持参したため、領民らは納めなかった。
困った老臣・堀直政は兼続に使者を送って年貢の返還を求めたが、これに対して兼続は「会津の旧主・蒲生氏も半年分の年貢を持ち去っている。貴殿が越前で徴収しなかったのは愚鈍だからであり、私の知ったことではない」として、要求をつっぱねたという。

関ヶ原・徳川政権期

家康の評価

家康は会津征伐の際、兼続についてこう語った。「奥州の諸浪人らは野蛮で心が猛々しく、勇ましいことは他にたとえようがない。直江兼続は智勇がある男で、こういった連中を自由に使いこなしたから譜代の者と同様、命令に従い忠誠を尽くす人物になったのだ。」と。

関ヶ原敗戦の後

米沢32万石を領していたが、関ヶ原敗戦後は上杉景勝からわずか6万石を拝領されることとなった。兼続はこのうち5万石を仲間に分配し、残り1万石のうちの半分を身分の低い者に配分し、自らはたった5千石となったという。
その後、景勝に従って登城した際に本多正純・酒井忠世・安藤直次・成瀬正成らと会ったが、直次・正成らは手を突いて「山城殿(=兼続のこと)いかがなされましたか?」などと、兼続を尊敬した態度であったという(『名将言行録』)。

質素・倹約家

慶長14年(1609)、嫡子・景明と戸田氏鉄の娘との婚儀において、戸田家から朱塗りの膳椀に金蒔絵の道具が届いたときのこと。戸田家につり合うような道具の準備を相談された兼続は、「それはもっての外、もし対等の膳椀でなければ婚礼できぬというならば、早速破約とする。武士の魂なる刀や槍に錆がなければ何も恥じることはない」と、語気を強めて言ったという。

政宗に強烈な一言

徳川政権下のある時、江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違って素通りした。
政宗がこれを咎めると、これに兼続は「政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と返答をしたという。

その他

大男?

「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」としている(『常山紀談』)。

文化人・蔵書家

南化玄興、西笑承兌などと親交があり、文化人・蔵書家として有名であったという。

豊臣政権による朝鮮出兵の際、肥前名護屋城に滞陣し、わずか2ヶ月間で300巻の医学書を書写させている。また、渡海した後、兵士に略奪を戒めるとともに、漢文で書かれた中国の書籍を日本に持ち帰っている。


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