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「御館の乱」謙信死後の後継者争い
──天正6-7年(1578-79年)

背景

天正6年(1578年)上杉謙信が急逝すると、残された上杉景勝上杉景虎という2人の後継者候補の間で、跡目争いが勃発した。これがいわゆる「御館の乱」と呼ばれる、上杉家内部のお家騒動である。

ただし、この乱が本格的に始まったのは謙信死後2ヶ月を過ぎてからであり、すぐに勃発したわけではない。また謙信は急逝したとはいえ、遺言を残す余裕まではあった。その中で自らの後継者として、上杉景勝を指名している。この時点で既に後継者は決まっていたのであり、お家騒動に発展する余地はない。また景勝と景虎との間でも、これまで争いをしていた形跡もない。それどころかお互いを認め合って、親密な交流を築き上げていた様子が史料には残されている。

さらに景勝は、上田長尾家当主として長尾顕景を名乗ってきたのであり、また北条氏康の実子であった景虎も、上杉家に人質として送り込まれてきた養子である。両者とも上杉家の養子身分という境遇は、類似していたのだ。さらに上杉家の記録書「上杉家御年譜」には、謙信の葬儀にも、2人が仲良く棺を挟んでいる様子が描かれている。後継者に指名された景勝は、謙信の死後わずか1週間程で、上杉家の本城である春日山城へ移っており、国内外へ向けて後継者であることを宣言している。そして着々と後継体制の整備を進めていた。 ところが謙信の死後から約1ヶ月を過ぎた頃、会津の戦国大名である蘆名止々斎が、越後への侵攻を図った辺りから雲行きが怪しくなる。

この動きをいち早く察知した上杉家の家老・神余親綱は、直ちに厳戒態勢を敷いた。ところがこの神余親綱の動きを、代替わりの隙を突いた独断専行として、景勝は咎めてしまったのだ。 あらぬ嫌疑をかけられて不信感を持った神余親綱は、上杉景勝への忠誠の証である誓詞を拒否。そうしているうちに、実際に会津から蘆名止々斎が侵攻して来てしまう。

結果的に蘆名氏の侵攻は撃退したものの、家中における景勝の信頼は一気に失墜することになった。同時に、謙信の後継者を上杉景虎とする勢力も台頭し始めた。また景虎自身も、謙信の義父である上杉憲政の御館城へ拠点を移し、景勝との対決姿勢を鮮明化する。 ここから2年間にも及ぶ「御館の乱」が、ついに始まろうとしていた。

乱の勃発と経過

同年5月5日、越後の大場(現在の上越市)において、ついに景勝と景虎の軍勢が衝突する。これを皮切りに春日山城内でも景勝派のいる本丸と、景虎派のいる三の丸との間で、約半月あまり交戦状態が続いた。 なお景勝派には、亡き謙信の側近や旗本の他、新発田や色部といった下越地方の国人および豪族が数多く加わっていた。 その一方で景虎派には、元関東管領だった上杉憲政を中心に、上杉一門衆の結集が目立った。また景虎の支持派は国外の有力大名にも多く、景虎の血族である北条氏はもちろん、甲相同盟の関係から支持に回った武田氏をはじめ、伊達氏や蘆名氏など奥州の有力大名も連なった。

景勝と景虎の衝突開始から約半月が経過した5月半ば頃になると、春日山城の三の丸で交戦していた景虎派は、予め拠点化していた御館城へ移り、籠城戦の構えを見せる。同時に、景虎の実兄である小田原の北条氏政に援軍を要請した。 氏政の援軍が到着する間にも、景虎派は春日山城へ度々攻撃を仕掛けたが、なかなか攻略できない状態が続く。それでも領内にある宮野や小川といった景勝派の城を次々と落とし、北条氏の援軍を受け入れる準備を着々と進めた。

ところがこの時点では、北条氏政の主力軍は越後へ派兵できなかった。というのも、氏政の軍勢は鬼怒川周辺で、佐竹・宇都宮連合軍と交戦しており、越後へ援軍を送る余裕がなかったからである。そこで氏政は、同盟関係にあった甲州の武田勝頼や、奥州の伊達氏および蘆名氏などに対して、景虎支援を要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬には約2万の軍勢を信濃経由で越後へ送り込んでいる。また蘆名氏も越後領内に侵攻して、景勝派の蒲原安田城を攻略した。この時点では圧倒的に景虎派が優勢であり、景勝の降伏も時間の問題かと思われた。

しかし6月になると状況が一変し始める。甲相同盟で北条および景虎とつながっていた武田勝頼が、なんと景勝と和睦を図り、甲越同盟を締結してしまったのだ。背後にいた勝頼の軍勢を気にする必要のなくなった景勝派は、ここから攻勢に転じる。景虎派の有力な重臣であった長尾景明や上杉景信らを次々と討ち取り、景虎派の勢力圏を強く圧迫し始めた。

9月に入ると、ようやく北条氏政の主力軍が越後へ兵力を向け始めたが、景勝派はなんとか冬まで耐え抜いた。最終的に北条軍は冬の寒さや大雪を警戒して、撤退せざるを得なかった。また御館城を中心とした景虎派の勢力圏では、兵糧不足や疲労の色が濃く、日増しに劣勢状態に置かれた。それを傍目で見ながら景勝は、武田勝頼の妹である菊姫からの輿入れを受け、ますます甲越同盟を強化していく。

そしてついに翌天正7年(1579年)2月1日、上杉景勝は御館城にいる景虎勢への総攻撃を命じる。雪に阻まれて北条の救援軍も望めないまま、景虎派の有力武将が次々と討ち取られ、御館城下にも火が放たれた。同年3月17日になると、御館城主で元関東管領だった上杉憲政が、景虎の実子である道満丸と共に逃亡を図るものの、途中で景勝派の将兵に捕まり討たれた。また景虎自身も御館城から脱出して、家臣のいる鮫ヶ尾城へ逃げ込んだが、城主の堀江宗親に裏切られ、同24日に自害した。 ここにおいて御館の乱は勝敗を決し、上杉景勝こそが上杉家の正当な後継者ということになった。なお景虎が自害した後も、家臣の本庄秀綱や神余親綱は抵抗を続け、完全に乱が収束したのは天正8年(1580年)に入ってからである。

乱後の影響

景虎との家督争いを制した景勝であったが、その後の道のりは容易ではなかった。まず内乱によって上杉一族はもとより、有力な重臣や国人衆も失ったことで、上杉家全体での勢力低下を避けることは難しくなった。そのうえ対外的には、急速に台頭する織田信長の勢力から脅威を受けると同時に、対内的には新発田重家の反乱や、重臣同士の恩賞を巡る内紛に悩まされた。

また、甲越同盟の相手方であった武田氏が弱体化するにつれて、上杉側も不利な状況に追い込まれていく。かつて同盟相手であった北条氏との関係が、御館の乱で決定的に途切れたことで、織田・徳川・北条の勢力に度々脅かされることになったのだ。そして結果的には、この3氏の勢力による甲州征伐によって、貴重な同盟者であった武田氏の滅亡を招くことになる。 まさに全方位を敵に囲まれた状況の中で、越後の上杉は苦境に立たされることになった。北陸で覇権を争ってきた柴田勝家をはじめ、奥州の伊達輝宗や、会津の蘆名盛隆。さらには信濃から森長可、上野の滝川一益からも侵攻され、土俵際寸前まで追い込まれた。

ところが、天正10年(1582年)の本能寺の変による織田勢力の弱体化により、事態は徐々に景勝に好転し始める。景勝は、信長の後継者として台頭した羽柴秀吉に臣従を誓うと、秀吉の援護を受けながら出羽国や庄内地方を次々と制圧し、秀吉の天下統一に貢献した。

慶長3年(1598年)には、秀吉は景勝の働きを認めつつも、120万石に加増された会津への移封を、景勝に命じた。これは伊達などの奥州勢や、秀吉のライバルである徳川家康など有力大名の動きを抑えるために、景勝に監視役を負わせたものである。しかしその秀吉も亡くなり、さらには関ヶ原の戦いで豊臣氏そのものが滅亡。天下を取った家康に命じられる形で、米沢への減封移転となった。ここから徳川幕府260年の間、上杉家は米沢の一藩主として幕末まで存続した。


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