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5分でわかる上杉謙信

川中島の戦いでライバル・武田信玄と激闘を繰り広げた上杉謙信。その強さから「軍神」「越後の虎」「越後の龍」などの異名を持つ。

誕生~国内動乱の中へ

謙信は享禄3年(1530年)に越後守護代・長尾為景の末子として春日山城で誕生した。

母は長尾氏の娘・虎御前(青岩院)。寅年生まれということから、幼名は虎千代と名づけられた。

越後守護代の職は、過去に越後長尾氏の三家 "三条長尾家"、"上田長尾家"、"古志長尾家" で争われてきたが、やがて三条長尾家が世襲するようになり、代々越後守護上杉氏を補佐する立場となっていた。

謙信の誕生当時、為景は既に越後守護を倒して下剋上を果たしていた。だが、国内はなおも内乱が続き、合戦は繰り返されていた。

こうした情勢の中の天文5年(1536年)、為景は隠居して家督を嫡男・晴景に譲った。一方で7歳の謙信はこのときに春日山城下の林泉寺に入れられ、そこで住職・天室光育から教養や兵学を学んだという。

幼き謙信は観音菩薩の信者であった母に育てられた影響で信仰に興味を示したといい、また、城の模型で城攻めの遊びをするのが好きだったともいうから、下剋上の筆頭格で知られる父からは乱世の厳しさを吸収していったのであろう。
ここに毘沙門天を強く信仰し、軍神とまで呼ばれた謙信の姿がうかがえる。

天文11年(1543年)には父が病死。このときの謙信は甲胃をつけて、父の葬儀に参列したというほど、国内の内乱は治まっていなかった。

家督相続~越後統一へ

父の病没後、後継者の兄・晴景は内乱の続く国内を統治できないでいた。
というのも病弱で武将としての器量に欠けていたといい、長尾家中でも晴景の命令に従わない者まであらわれるようになっていたのだ。

こうした中、兄を支援するため、ついに謙信が将として長尾氏の支城に入ると、まもなく元服して"長尾景虎"に改名し、初陣に挑むことになる。

近隣の敵対勢力が、若い謙信をあなどって攻め込んできたところ、これらを撃退する見事な初陣を飾り、早くも武将としての頭角をあらわしたのだ。謙信15歳のときであった。

このように景虎が名声を高めた結果、上杉家中では景虎を当主にしようとする動きが出始め、内紛の危機を迎えたが、結局、景虎が兄・晴景に代わって上杉家の家督と越後守護代を継承したのであった。

その後、将軍・足利義輝に景虎の越後国主の地位を認めてもらったことで坂戸城の戦い(1550-51年)が勃発。長尾政景を降伏させ、越後国統一を果たす。

vs 武田信玄「川中島の戦い」

しかし、まもなくして次々と隣国の諸将らが景虎を頼ってきた。

  • 関東:関東管領・上杉憲政が北条氏康の侵攻によって逃亡(1552年)
  • 信濃国:信濃守護・小笠原長時が武田信玄の侵攻で景虎に救いを求める。(1552年)
  • 信濃国:信濃国衆・村上義清が武田信玄の侵攻で景虎に救いを求める。(1553年)
  • 越中国:越中国衆・椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請(1560年)

これをきっかけに武田信玄、北条氏康、神保長職らと対立関係がはじまる。

武田信玄とは小笠原長時や村上義清らの信濃国の所領回復のために、北信濃で5度にもわたる川中島の戦い(1553、55、57、61、64年)などで激戦を繰り広げ、北条氏康とは関東遠征(1560年~)によって長期間、関東各地で攻防を展開。

また、神保長職に対しては、初の越中出兵(1560年)後も長職がたびたび椎名氏への圧迫を続けたため、何度も交戦していくこととなる。

一方で国内では1554年(天文23年)に北条高広が謀反、翌年にこれを鎮圧して帰参を許しているが、1556年(弘治2年)には家臣同士の内部抗争や国衆の離反などに嫌気がさして突如出家を宣言した。

しかし、家臣の懇願により出家を断念し、このときに謀反を起こした大熊朝秀を鎮圧した。

初上洛(1553年)で後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁、また、再上洛(1559年)の際には、正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁し、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。

vs 北条氏康「関東遠征」

1560年(永禄3年)、初の越中出兵で椎名氏へ攻める神保長職を討伐して逃亡させた。その後帰国してすぐに関東遠征を開始。

このとき、すさまじい攻勢で関東諸将らを次々と結集させ、兵の数は日増しに膨れ上がり、北条氏康の居城・小田原城まで侵攻して包囲した時には10万余の大軍とまでなったが、陥落できずにしばらくして軍を引いた(小田原城の戦い(1560-61年))

戦後、関東管領・上杉憲政の要請で鎌倉に立ち寄り、山内上杉家の家督と関東管領職を相続して上杉政虎と改名、続いて、まもなくして将軍義輝の一字を賜って"上杉輝虎"と称した。

当初、関東の戦線は優勢であったものの、武田信玄と北条氏康は甲相同盟を締結しており、武田信玄が西上野侵攻を開始するなど、両軍との戦いで次第に劣勢になっていたため、安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗した。

以後も、北条氏・北条方についた関東諸将らと、生野山の戦い(1561年)、唐沢山城の戦い、第一次関宿合戦(1565年)、臼井城の戦い(1566年)など、関東各地でたびたび交戦した。

vs 越中一向一揆「越中平定」

1568年(永禄11年)、信長とともに上洛して新将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。

同年、椎名康胤が離反して武田信玄方についた。さらに越中国の一向一揆も信玄と通じたため、越中へ出陣して放生津の戦い(1568年)で一向一揆軍と交戦、まもなくして越後で本庄繁長の乱(1568-69年)が勃発したため、謀反鎮圧のために帰国を余儀なくされた。

1569年(永禄4年)には宿敵であった北条氏康と同盟を締結した(越相同盟)。

一方、越中では椎名康胤討伐で松倉城の戦い(1569-71年)で勝利するが、その後、落ち延びた椎名康胤が越中一向一揆と手を組み、富山城の奪い合いで激戦を繰り広げた。

また、このころに法号 "不識庵謙信" を称している。

北条氏康が死去すると、北条氏政によって越相同盟が破棄され、北条氏と武田氏が再度和睦した。

信玄は西上作戦(1572-73年)で謙信に背後を突かれないように越中一向一揆を調略によって煽動。このため、謙信は越中一向一揆と再び交戦となったが尻垂坂の戦い(1572年)で一向一揆勢に圧勝した。

同年、武田信玄が手切れとなった織田信長から同盟の申し出を受け、織田方と同盟を締結。

軍を引き上げる度に蜂起する越中一向一揆に対し、越中国の支配化を決心すると、後顧の憂いを無くすために敵対する北条氏政の関東へ出兵し、金山城の戦い(1574年)、武蔵国での氏政との対陣、第三次関宿合戦(1574年)などで交戦した。

vs 織田信長 & 最期

1576年(天正4年)に入ると、足利義昭が反信長勢力を糾合。これにより、本願寺顕如と和睦し、信長との同盟は破綻となった。そして、蓮沼城を陥落させて椎名康胤を討ち取り、越中国の平定を果たした。

能登国の制圧に向けた七尾城の戦い(1576-77年)では信長と通じていた長続連らを調略によって討ち、七尾城を陥落させると、これを救援しに進軍してきた柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦い(1577年)で撃破した。

その後は春日山城に帰還し、次の遠征準備をしていたところで急死した。享年49。

墓所・史跡

上杉家廟所

上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)は上杉謙信をはじめ、景勝ら米沢藩主上杉家の代々の墓所。

謙信の死後、その亡き骸は甲冑を着せられて甕に納められ、その甕に漆を流し込んで固められたという。その当初、謙信の霊柩は越後にあったが、後継者の上杉景勝が豊臣政権下で会津に移された際にともに移動し、仮堂に安置されたという。

そして、関ヶ原の戦い(1600年)の後、徳川家から米沢に移動を命じられた上杉景勝は再度、謙信の霊柩もともに移動させた。
景勝は米沢入り後、米沢城本丸に御堂を建立して謙信の霊柩をそこに安置したといい、景勝の死後も米沢藩主十二代に渡って埋葬された。

上杉家廟所は当初、米沢城内御堂の避難所として建てられたものであった。しかし、明治政府の「廃城令」に伴って米沢城が解体された後の1876年(明治9年)、謙信の霊柩はこの”上杉家廟所”に移された。

この地は現在、"米沢藩主上杉家墓所"の名称で国の史跡に指定されている。

林泉寺(りんせんじ)

林泉寺は越後国守護代・長尾氏、およびその後裔の上杉氏の菩提寺として知られる寺院。


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