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5分でわかる上杉謙信

上杉謙信の肖像画
ライバルの武田信玄と争った川中島の戦いをはじめ、北条氏とも関東へ遠征してたびたび交戦した上杉謙信。その強さから「軍神」「越後の虎」「越後の龍」などの異名を持つ。本稿ではそんな謙信の生涯を追う。

国内動乱の中で誕生

上杉謙信享禄3年(1530年)の1月21日、越後守護代・長尾為景の末子として春日山城で誕生。母は長尾氏の娘・虎御前(青岩院)といわれている。寅年に生まれたことにちなんで、幼名は「虎千代」と名付けられたようだ。

父・為景の下剋上

父・為景が就いていた越後守護代の職というのは、過去に越後長尾氏の三家、すなわち三条長尾家・上田長尾家・古志長尾家が争ってきたが、やがて為景の家柄である三条長尾家(=府中長尾家)が世襲するようになって、代々越後守護の上杉氏を補佐する立場となった。しかし、為景は父である長尾能景の仇として越後守護の上杉房能を恨んでいたため、謀反を起こして房能を自害に追い込み、傀儡の新たな守護として上杉定実を擁立。さらには続いて報復にむかってきた房能の実兄である上杉顕定をも討ち取ってしまうのだ。

上述のように、為景は虎千代(のちの謙信)の誕生以前より、すでに越後国内で下剋上を果たしていたのである。だが、その後は上杉定実の勢力とも対立し、引き続き越後国内では動乱が続くことになり、そうした中で謙信は生まれたのである。

仏門に入って、修行の日々

こうした情勢の中の天文5年(1536年)、為景が隠居して長尾家の家督は嫡男の長尾晴景に譲られることになった。一方、このとき7歳の謙信は、春日山城下の林泉寺に入れられ、住職の天室光育からは教養や兵学を厳しく教えられたという。

幼き謙信は観音菩薩の信者であった母に育てられた影響で信仰に興味を示したといい、また、城の模型で城攻めの遊びをするのが好きだったともいうから、下剋上の筆頭格で知られる父からは乱世の厳しさを吸収していったのであろう。ここに毘沙門天を強く信仰し、軍神とまで呼ばれた謙信の姿がうかがえる。

なお、謙信という名は、のちに称した法号である。初名は「長尾景虎」であり、のちに「上杉政虎」→「上杉輝虎」→「上杉謙信」と改名していくのだが、本記事においては便宜上「謙信」で統一することにする。

初陣、家督相続、そして越後国の統一へ

こうした中、天文11年(1543年)には父が病死。このときも敵対勢力が城下に迫ってきていたほどに国内の内乱は収まっておらず、14歳の謙信は甲胃を身につけて父の葬儀に参列したと言われている。

その後、当主となった兄の晴景だが、彼は病弱で武将としての器量に欠けていたといわれ、内乱の続く国内を統治できないでいた。 長尾家中でも晴景の命令に従わない者まであらわれるようになっていたという。

当時の越後では、守護の上杉定美が伊達稙宗の三男・時宗丸を婿養子に迎えようとしていたが、この一件で賛成派と反対派が対立、すなわち伊達稙宗・晴宗父子間での紛争に発展していた。(天文の乱)

初陣を果たし、頭角をあらわす

天文の乱は越後国においても賛成派と反対派との間で戦闘に発展し、晴景はこの内乱を解決できなかった。こうした状況の中、晴景の命を受けた謙信は武将として長尾氏の支城に入り、まもなく元服して"長尾景虎"に改名。そして天文13年(1544年)には、栃尾城の戦いで晴景を侮って謀反を起こした越後の国人衆らを撃退するという見事な初陣を飾り、謙信は早くも武将としての頭角をあらわしたのだ。

さらに翌天文14年(1545年)には上杉家の重臣である黒田秀忠が謀反を起こすが、このときも謙信が総大将として出陣して降伏させると、翌年に再び黒田氏が背いたことでこれを滅ぼしている。

越後国を統一へ導く

こうした活躍から長尾家中において謙信を当主にしようとする動きが出始め、晴景と謙信の関係は険悪なものに・・・。内紛の危機を迎えたが、天文17年(1548年)に守護の上杉定美が調停に入ったことで、謙信が家督と越後守護代を継承することになった。謙信19歳のときである。

天文19年(1550年)に越後守護・上杉定美が後継者を指名しないまま亡くなったため、室町幕府13代将軍・足利義輝によって謙信が越後国主としての地位を認められることになる。
同年末にはこのことや謙信の家督相続に不満を抱いていた同族の長尾政景が反乱を起こすものの、謙信によって鎮圧されている。(坂戸城の戦い)
これにより、謙信は22歳にして越後を統一することになったのである。

ライバル・武田晴信(のちの信玄)と出会い、川中島合戦へ

越後統一を果たした謙信であったが、やがて隣国の諸将らが各自敵対勢力との戦いで劣勢に立たされると、彼らは武勇名高い謙信を頼ってくることになる。

天文21年(1552年)に入り、まずは関東管領の上杉憲政が北条氏康に居城の平井城を攻め立てられ、越後国へと逃亡。さらに信濃国では信濃守護・小笠原長時と信濃有力国衆の村上義清が武田信玄の猛攻を受け、立て続けに謙信に救いを求めてきたのである。

第一次、二次川中島合戦

これをきっかけに謙信は武田・北条と対立関係に入る。天文22年(1553年)の8月にはついに信濃国に出陣。ここに川中島を舞台として両雄の宿命の戦いがはじまることになるのだ。
両雄の初対決となったこの 第一次川中島の戦い において、謙信は荒砥城を攻略する等して勢いよく攻めたが、武田軍が塩田城を拠点として守りきり、両軍が直接対決を避けたこともあって、謙信が越後に撤退して収束している。
その後まもなく、謙信は初上洛を果たし、13代将軍・足利義輝、そして後奈良天皇に拝謁したのであった。

宿敵・信玄は、武力による直接的な攻撃というよりは、調略や同盟を駆使して戦略的に謙信を苦しめていった。

天文23年(1554年)には武田・北条・今川の三氏による相互の婚姻同盟(甲相駿三国同盟)が成立。さらに謙信の家臣・北条高広を調略によって離反させている。謙信は翌弘治元年(1555年)2月にこれを鎮圧して北条高広の帰参を許したが、その間にも信玄は謙信が雪で動かせないこの時期をねらい、北信濃の地域の侵略をすすめていたようだ。

雪解けの4月になり、謙信はようやく川中島まで出陣して第二次川中島の戦いとなるが、このときは長期滞陣となって決戦は行なわれずに、今川氏の仲介で和睦となっている。

こうした中、弘治2年(1556年)には家臣同士の内部抗争や国衆の離反などに嫌気がさし、謙信は突如出家を宣言。これを好機ととらえた家臣の大熊朝秀は武田家と通じて謀反を起こすが、天室光育や長尾政景ら家臣の懇願によって出家を断念した謙信がこれを鎮圧している。

第三次合戦で川中島は信玄の手中に?

弘治3年(1557年)2月には武田軍は和睦案を破って信濃国に侵攻する。約束を反故にされた謙信は激怒し、両軍が再び対峙することになった。(第三次川中島の戦い)
破竹の勢いで武田領へと侵攻する謙信であったが、謙信の強さを理解していた信玄は深志城から動こうとはせずに決戦を避けた。結果的に謙信は目立った成果をあげられず、川中島地域はほぼ信玄に掌握されてしまうことになった。

永禄2年(1559年)5月には、再び上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁。義輝から管領並の待遇を与えられている(上杉の七免許)。なお、このころ越中国では椎名康胤が神保長職の圧迫を受けていた。そして、謙信の従属下にあった椎名氏の要請を受け、謙信は永禄3年(1560年)3月に初の越中出兵を行なって神保長職を追い払った。だが、その後も長職は幾度となく椎名氏への圧迫を続けたため、何度も交戦していくこととなる。

関東遠征で北条討伐へ。関東管領に就任して上杉の姓を得る

越中から帰国した謙信だが、まもなく北条氏康を討伐する機会が訪れた。永禄3年(1560年)5月、尾張の織田信長が甲相駿三国同盟の一角・今川義元をに桶狭間の戦いで討ち取ったことで、三国同盟にほころびが生じたのである。

これを好機とみた謙信は北条討伐のために関東遠征を開始すると、上野国に入って北条方の諸城をすさまじい攻勢で攻略し、関東制圧の拠点に厩橋城を定めた。同時に関東の諸大名に北条討伐の号令を出すと、謙信の勢いに恐れをなした関東諸将らが次々と結集することになり、兵の数は日増しに膨れ上がっていったようだ。
上野国→武蔵国→相模国へと侵略をすすめ、永禄4年(1561年)3月には北条氏康の居城・小田原城に至ってこれを包囲した時には10万余の大軍にまでなっていたという。だが、籠城戦で難攻不落の小田原城を陥落することはできなかった。長期滞陣によって士気は低下していき、さらに武田軍が背後を牽制する動きもみせていたため、謙信はやむなく軍を引くことにした。(小田原城の戦い)。

その後、謙信は関東管領・上杉憲政の要請で鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄り、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、ここで「上杉政虎」に改名している。関東管領の就任式では、家臣の柿崎景家斎藤朝信が太刀持ちを務めたらしく、謙信は鶴岡八幡宮へ黄金100枚を奉納したといわれている。

以後、武田・北条連合との合戦に明け暮れる

以後、武田氏とは信濃国、北条氏とは関東を舞台に二大勢力と戦うことを余儀なくされた謙信は、徐々に劣勢となっていくことに。

川中島最大の激闘となった第四次合戦

関東遠征から越後へ帰国すると、謙信は越後国境を脅かす信玄との決戦を決意。 同年8月、第四次川中島の戦いで再び両雄が戦うことになった。このときの合戦は川中島最大の激闘として知られ、謙信と信玄が一騎討ちをした伝説まで生まれるほど激しい戦闘となったが、結局のところ勝敗はついていない。 なお、12月には将軍義輝から一字を賜って、「上杉輝虎」と再び改名している。

当初、関東戦線は上杉勢が優勢であったが、信玄が第四次川中島合戦の直後から西上野へ侵攻を開始してからは、次第に劣勢に立たされていくことになる。

関東方面は劣勢に

謙信は武田・北条連合に対し、安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶなどの対抗措置をとるが、下野国の佐野氏とは約10年にもおよぶ唐沢山城の戦いで手を焼いた。さらに永禄9年(1566年)臼井城の戦いでは下総国で白井入道浄三の知略に敗れるなど、関東諸将らは謙信から離反して次々と北条方の軍門に降っていった。さらに同年9月には、信玄が長野業正の子・業盛を自害に追い込んで箕輪城を攻略したため、上杉勢は関東で完全に守勢に回ることになってしまったのである。

なお、この間の永禄7年(1564年)には、信玄が飛騨へ出兵したことで、これを牽制するために謙信は最後の川中島合戦へと出陣。このとき、謙信は短期決戦で信玄を討ち取ろうとしていたが、信玄は衝突を避けたことでまたしても長陣に。結局両軍が衝突することはなく、5度にわたる川中島の戦いは幕を閉じている。(第五次川中島の戦い)

合戦の舞台は越中国へ。

川中島での戦いの終結とともに、飛騨や上野へも勢力を伸ばしてきた信玄は、実は今川と敵対関係にある織田信長とも同盟を結んでおり、これがきっかけで永禄10年(1567年)に武田・今川間の同盟関係は破綻となった。これに対し、今川氏真は海に面していない武田領への塩止めを実行したが、これを聞いた謙信が困った信玄に塩を送ったという逸話がある。ここから「敵に塩を送る」の故事が誕生している。

信玄の牽制により、翻弄される謙信

永禄11年(1568年)、3月に上杉重臣の本庄繁長が反乱を起こし、さらに7月には信頼を寄せていた越中の椎名康胤も謙信に背いた。いずれの謀反も信玄に内通していたという。信玄は徳川家康と共同で今川領を攻め取る計画を立てており、駿河侵攻を行なうためには謙信を足止めする必要があったということである。なお、同年は信長が上洛を果たし15代将軍足利義昭を誕生させたが、謙信はその義昭から関東管領を再任されている。

こうして謙信は椎名康胤と本庄繁長の謀反鎮圧の対応に追われることになる。その間に武田・徳川は同時に今川領へ侵攻し、翌永禄12年(1569年)に今川氏は事実上滅亡となっている。(駿河侵攻・遠江侵攻)
この今川領争奪戦で武田・北条間の同盟も破綻して両者は敵対関係となった。その影響を受けて謙信は、北条・武田の両者とほぼ同時期に和睦(越相同盟・甲越和与)。また、この後まもなく椎名康胤を討伐するために越中国に出陣している。(松倉城の戦い

元亀元年(1570年)には、越相同盟にともなって北条氏康の七男・北条三郎(のちの上杉景虎)を養子として迎え入れた。なお、謙信は三郎を大いに気に入り、かつての自身の名である「景虎」を三郎に与え、自らは同年末に法号「不識庵謙信」を称している。

再び武田・北条連合と敵対関係となった謙信。その後、元亀3年(1572年)から信玄による西上作戦が開始される。だが、その直前に信玄は例のように越中一向一揆を扇動して上杉軍の足止め作戦に出たため、謙信は再び越中一向一揆との戦いを強いられることになる。一方、これにより、武田・織田間の同盟は手切れとなり、代わりに上杉方が信長から同盟の申し出を受け、織田・上杉間の同盟が成立することになった。

またも信玄に翻弄される形となった謙信だが、同年9月の尻垂坂の戦いにおいては一向一揆勢に圧勝。続いて一揆に加担している椎名康胤の本拠・松倉城を包囲し、天正元年(1573年)正月にこれを陥落させている。なお、落ち延びた康胤の消息は定かでないが、以後も越中一向一揆と手を組んで上杉方に抵抗しつづけたらしい。

信玄の死により、越中攻めに専念

こうした中、同年4月には宿敵の武田信玄が病死。謙信が軍勢を引く度に蜂起してきた越中一向一揆の勢力は削がれ、謙信の心は一気に越中制圧に傾くことに。
後顧の憂いを無くすため、謙信は天正2年(1574年)に再び関東へ侵攻。しかし、上野国の金山城攻めは失敗に終わった。この頃、関東における上杉軍の影響力が大きく低下していたのもあり、武蔵国羽生城や関宿城も救援することは叶わず、北条方に攻め落とされてしまっている。

ついに信長と敵対!

反織田勢力の筆頭であった信玄の死後、中央では織田勢力が一気に勢力を拡大していた。

反織田勢力の中心人物であった15代将軍義昭は追放され、越前の朝倉義景や近江の浅井長政も滅び、信玄の後継者である武田勝頼さえも、天正3年(1575年)長篠の戦いで信長に大敗を喫していたのである。

謙信、本願寺と和睦して反信長勢力へ

だが、天正4年(1576年)に将軍義昭は再び反織田勢力を結集しはじめ、さらに信長と敵対する一向一揆衆のトップである本願寺顕如が謙信に和睦を求めてきた。この頃に越中国を平定した謙信だが、北陸方面にも勢力を伸ばす信長に脅威を抱き、ついには本願寺と和睦に至って反信長勢力に加わることになった。

同年11月、能登制圧を狙う謙信は、畠山氏の七尾城攻めを実施。畠山氏内部では、遊佐続光ら親上杉派と、長続連・綱連父子ら親織田派とに分かれていたが、結局畠山と上杉は衝突することになった。難攻不落の城として名高い七尾城であったが、上杉軍は遊佐続光らの手招きもあり、翌天正5年(1577年)9月に降伏・開城させている。(七尾城の戦い

その後、謙信は軍勢を南下させて能登末森城も攻略し、さらに迫りくる織田軍との対決に向けて南下していった。 実は長続連から援軍要請を受けていた信長は、柴田勝家率いる軍勢を七尾城の救援に向かわせていたのである。
しかも、このときの柴田軍は、七尾城の陥落や上杉軍の南下も知らなかったらしい。状況を把握して撤退をはじめたものの、謙信はこれを逃さずに追撃して大勝したという。(手取川の戦い

だが、謙信が織田軍と戦ったのはこれが最初で最後となった。戦いに勝利した謙信は春日山城に帰還し、次の遠征準備をしていた最中の天正6年(1578年)3月9日に急死した。享年49。

亡くなるまで昏睡状態が続いていたため、死因は脳溢血といわれている。遺骸は鎧と太刀と共に甕の中に納められて漆で密封された。この甕は上杉家がのちに米沢城に移った後も本丸の一角に安置され、明治維新後には歴代藩主が眠る上杉神社に移されることになる。

生涯を通じて家中の争いや周辺諸国の大名との合戦に明け暮れた謙信。関東管領職にこだわり続けたこと等から権威主義者と評価されることもあるが、越後国を治め、多くの国人領主や諸大名らを束ねていくためには必要なことだったともいえる。謙信は義を重んじ、合戦では無類の強さを誇り、軍神と称えられた比類なき戦国武将であった。そのため今日でも地元から慕われ、全国的にも知名度の高い将となっているのである。


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