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上杉景勝:上杉家を守り抜いた謙信の後継者

上杉景勝の肖像画

豪胆な性格で知られ、謙信亡き後も義の精神を受け継ぎ、上杉家を守り抜いた男。上杉景勝。
本稿ではそんな景勝の生涯を追う。

誕生~謙信の養子へ

彼は弘治元年(1555年)に坂戸城主・長尾政景の次男として誕生した。

母は上杉謙信の姉・仙桃院であり、謙信は叔父にあたる。

幼名は卯松といい、幼少期は謙信にかわいがられたようだ。
実際、景勝8歳のときの永禄5年(1562年)には、関東遠征で在陣中の謙信から習字の手本を書き送られている。

そして2年後には父・政景を不慮の事故で亡くした。政景が上杉重臣の宇佐美定満を招き、坂戸城近くの野尻池で舟を浮かべて酒宴していたところ、酒に酔って池に飛び込んで遊泳をはじめたが、2人とも溺死したという。

一説に謙信が政景を消すため、宇佐美定満に命じていたともいわれるが実際はどうなのであろうか。

こうして父を失った景勝は、謙信に招かれて母とともに春日山城に入り、謙信の養子となった。同時に元服もして「長尾喜平次顕景」と名乗っている。
景勝10歳のときであった。

景勝の初陣は永禄9年(1566年)の関東出兵時に従軍したときといわれる。12歳だから乱世においてめずらしくはない年齢だろう。

だが、景勝が21歳になった時、既に上杉家臣団中でトップの兵力を擁していたことには驚かされる。
というのも、天正3年(1575年)2月の「上杉家軍役帳」の筆頭は「御中城様」とあるが、この「御中城様」とは景勝のことなのだ。同年には上杉景勝(一説には長尾景勝)に改名し、謙信から弾正少弼の位を譲られている。

この官名は謙信が越後統一後に朝廷から賜わったものであるゆえ、おそらくこの時点で謙信から後継者と目されていたのだろう。しかし、一方で関東管領の役職は上杉景虎に譲られることになっていたようだ。

上杉景虎は北条氏康の七男で、上杉と北条が同盟を結んだ際に人質として送られていた。人質とはいえ、謙信の養子となって謙信の幼名「景虎」を賜わり、景勝の妹を妻に娶った男である。

この景虎の存在が皮肉にも上杉家の勢力を大きく後退させることになるのだが、その時はすぐにやってきた。
天正6年(1578年)3月に軍神・上杉謙信が病没すると、家中が景勝派と景虎派の2つに分裂し、後継者争いが勃発したのだ。

家督争い「御館の乱」

景勝は謙信の死後、先手を打って春日山城の本丸や金蔵、兵器蔵を抑えた。
城内で合戦がはじまると、景虎は三の丸を脱出して御館に籠城し、景勝に対抗する展開となった。

景虎が実家の北条に援軍を要請すると、北条氏政、そして北条と同盟関係にある武田勝頼は景虎に援軍を出すことで一致。
こうして武田軍が大軍で攻め寄せてきた。

景勝ピンチと思いきや、景勝は迅速にして見事な外交作戦でこれを回避している。

分が悪いとみた景勝は、勝頼に上杉領の割譲をちらつかせて和睦交渉を行ない、これが成功して勝頼の異母妹・菊姫と婚約することになった。
勝頼は北条に援軍を要請されて、景勝を討つ立場なのに、景勝と和睦してしまったのだ。

このためか、勝頼は景勝と景虎の和議も進めて一旦両者を和解させたが、まもなくして両者は決裂したようだ。その後、勝頼は北条との約束を果たさずに帰国してしまった。
こうした勝頼の行動の背景には、北条方がなかなか援軍を動かさなかったことに不信感を抱いた事が考えられている。

徐々に孤立していった景虎。翌天正7年(1579年)、ついに追い込まれて自害して果てた。

その後も越後各地で景虎派との抗争が続いた。結果、栃尾城・三条城・北条城などを攻略するなどして、景勝が名実ともに上杉家当主となったのは翌年のことであった。

ここに謙信死後3年にわたった動乱は、景勝派の勝利でようやく幕を閉じた。

新発田重家の謀反と秀吉への従属

晴れて国主となった景勝だが、その先には絶対絶命の危機が待ち受けていた。

天正9年(1581年)になると、乱の恩賞に不満を持った家臣の新発田重家が謀反を起こした。重家は乱で活躍したにもかかわらず、恩賞を与えられず、不満を抱いていたところに織田信長からの勧誘があった。

そして信長が翌天正10年(1582年)3月に景勝の同盟相手である武田勝頼を滅ぼしたことで窮地を迎えた。

信長の後ろ盾を得た重家は破竹の勢いで西へ侵攻し、新潟を占領。さらに織田勢も、柴田勝家率いる北陸方面軍が越中まで侵攻して魚津城を包囲すると、信濃海津城(長野市〉をまかされた森長可の軍勢も北上して春日山城へ接近、加えて関東の鎮定にあたっていた滝川一益も沼田城から越後に軍勢を派遣していたのだ。

景勝の居城・春日山城は、西に柴田勝家、南に森長可・滝川一益、東に新発田重家というように、まさに四面楚歌であり、6月にはついに魚津城も陥落となった。

景勝は滅亡を覚悟するほど追い込まれていたが、柴田勝家軍が突如撤退。信長は魚津城陥落の前日、本能寺の変によって非業の死を遂げていた。

戦況は一変し、景勝は九死に一生を得たのだ。

信長の死をきっかけに旧武田領(信濃・甲斐・上野)では、一揆が勃発するなど大混乱となり、織田方の各将はちりぢりとなっていった。

やがて空白地帯となった旧武田領は、徳川家康や北条氏政、さらに真田昌幸などの武田遺臣による争奪戦の場と化したのだ。

景勝もこのチャンスを逃さずに出陣し、最終的に北信濃・川中島4郡を確保することに成功している。(天正壬午の乱)

その後、景勝は再び新発田重家攻めを開始するが、新発田方の頑強な反撃で攻略することはできず、以後も出兵と撤退を繰り返して一進一退の攻防が長く続くことになる。

秀吉と誼を通じる

そうした中、天下の趨勢は豊臣秀吉に傾いていった。

秀吉は謀反人の明智光秀を討ち、織田家の後継者争いで主導権を握ると、続けて翌天正11年(1583年)には、これに対立する柴田勝家を討ったのだ。(賤ヶ岳の戦い)

景勝は賤ヶ岳の戦いの最中、柴田方の越中国富山城の佐々成政と睨みあっていた。このころから景勝は秀吉と誼を通じたとみられる。

実際、天正12年(1584年)の「羽柴秀吉 vs 徳川家康・織田信雄連合」の戦いでは、秀吉の要請を受け、家康を牽制するために信濃国へ侵攻。(小牧・長久手の戦い)
さらに秀吉が翌天正12年(1585年)に富山城の佐々成政を降伏させたときも秀吉方に味方している。(富山の役)

秀吉は同年に関白に就任しており、ここに事実上の豊臣政権が誕生したといえよう。

天正13年(1586年)になると、景勝は養子・畠山義真を人質として秀吉に差し出し、上洛して豊臣秀吉に臣従した。なお、この年は景勝だけでなく、徳川家康をはじめとする多くの諸大名らも秀吉に臣従しているのである。

豊臣政権下での景勝

新発田重家を討つ

豊臣大名となった景勝は、まもなく帰国して新発田重家攻めに全力を注いだ。そして天正15年(1587年)にはついに新発田重家を討ち、再び越後を統一、重家討伐に7年もの長い期間を要したのであった。
なお、翌年には再び上洛し、秀吉に新発田重家の討伐を報告すると、豊臣姓と羽柴の名字を賜って、従三位・参議に昇叙されている。

佐渡平定

帰国後の景勝は、次いで佐渡国の制圧に乗り出す。

佐渡は本間一族、すなわち河原田本間家、羽茂本間家が対立しており、景勝のたび重なる調停にも応じていなかった。
秀吉から”佐渡国は切り取り次第”の許可を得ていた景勝は、一部の本間氏らの協力によって天正17年(1589年)に佐渡へ上陸。 河原田城、羽茂城をあっという間に攻略して、佐渡を平定した。

戦後、景勝は功績をあげた一部の本間氏を家臣とし、佐渡の代わりに越後に知行地を与えている。

小田原征伐と朝鮮出兵

天正18年(1590年)の小田原征伐では、前田利家らとともに北国軍として参戦し、上野国松井田城、武蔵国鉢形城、八王子城の陥落に功をあげている。

この合戦で北条氏は滅亡し、続く奥州仕置によって秀吉の天下統一は成った。

文禄元-2年(1592-93年)に行なわれた豊臣政権の朝鮮出兵では、景勝ははじめ、5千の兵で拠点の肥前国名護屋に駐屯したが、のちに秀吉の名代として朝鮮へ渡海し、現地では前線基地として熊川城を築城・指揮した。

会津移封と秀吉の死

慶長3年(1598年)、景勝は伏見城で秀吉から会津へ移封を命じられた。

移封前の石高は91万石

  • 越後国45万石
  • 信濃国18万石(川中島四郡)
  • 佐渡国14万石
  • 出羽国14万石(庄内三郡)

そして移封後は120万石

  • 陸奥国92万石(会津)
  • 佐渡国14万石
  • 出羽国14万石(庄内三郡)

上記のように上杉家は91万→120万石への大幅な加増となる。

景勝は会津に入ると、要衝の地には腹心を置いて統治体制を整えていった。

以後、景勝は「会津中納言」と呼ばれ、同年に五大老が定められた際にその1人に任命された。しかも、五大老は公卿以上の高位高官を与えられていたという。

景勝は豊臣政権内での序列が非常に高く、秀吉から評価されていたことがうかがえる。だが、まもなく秀吉が死を迎え、上杉家の地位は一変することになる。

関ヶ原で家康と対立「会津征伐」

秀吉の死後、景勝は喪に服して葬儀のために上洛した。

当時は朝鮮出兵(慶長の役)が行なわれていたため、五大老の筆頭・徳川家康とともに後処理に追われるハメとなった。そして、翌慶長4年(1599年)にようやく会津に戻ると、景勝は国内インフラ整備と軍備増強に努めていった。

一方で家康は、秀吉の死に乗じて政権奪取をもくろみ、豊臣諸大名と縁組をして派閥形成をすすめていた。これは秀吉の遺命に背く行為だとして、石田三成らが反発。やがて豊臣家中は「家康派 vs 三成派」の2つに大きく分裂し、のちの関ヶ原の戦いの土壌が整いつつあった。

慶長5年(1600年)。ついに関ヶ原の幕が開けた。
そのきっかけは家康と景勝の対立にあった。上杉領で軍備増強が進められている事を "謀反の企て" として、家康が景勝に上洛を求めてきたのだ。

このとき、家老の直江兼続が送った弁明の書状「直江状」は有名だ。その内容は挑戦的で上洛要請を一蹴したため、家康が激怒して上杉征伐を決意したという。

兼続と三成が懇意の仲であったこと等から、おそらく景勝と家康は以前から対立関係にあったのだろう。

こうして上杉謀反の嫌疑を理由に、家康が大阪から出陣して会津へ向かった(会津征伐)が、大阪にいた石田三成が挙兵。その後、家康は反転して関ヶ原の地(美濃国)で決戦し、三成が敗戦したのは周知のとおりである。

ところで、家康軍が西に引き返した後、景勝は何をしていたのか。

実は勇猛にも出羽に出陣し、東軍に属した最上義光・伊達政宗らと戦っていた。しかし、関ヶ原決戦での西軍の敗北を知り、やむなく軍を撤退させたのであった。

戦後、景勝は兼続と共に家康に謝罪。知行地は米沢30万石に移封され、上杉氏の存続は許された。それまでの会津120万石と比べると、4分の1にまで減封されたことになる。

江戸幕府下での景勝

慶長8年(1603年)には家康が初代将軍となって江戸幕府が誕生、以後は徳川の世となった。

移封後、米沢の地に移った景勝は、着実に米沢上杉家の礎を築いていった。そして、江戸幕府下では徳川に一切背くこともなかった。

慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では徳川方に起請文を提出し、直江兼続とともに出陣し、翌年の大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣している。

晩年の景勝は、2代目将軍・徳川秀忠の上洛に供奉したり、秀忠から饗応をうけるなどもし、長寿をまっとうした。
米沢城で元和9年(1623年)死去。享年69。


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