あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

宇佐美定満

宇佐美定満(うさみ さだみつ、1489?-1564年)は上杉四天王、上杉二十五将や越後十七将の一人に数えられた上杉氏に仕えた名将。

上杉謙信の軍師 "宇佐美定行" としても知られているが、確かな史料に乏しく、その実像は多くの謎に包まれている。

経歴

宇佐美氏は伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市)を発祥とする氏族であるが、南北朝時代に越後に入国したと伝わる。

定満は1489年(延徳元年)に越後守護・上杉定実の家臣であった宇佐美房忠(ふさただ)の子として誕生したという。

一説に琵琶島城主・宇佐美越中守孝忠が父との説もあり、出自に関して定かではない。

定満は上杉定実が上条上杉氏出身であったことから、上条氏に仕えていたという。

越後国内では越後守護を世襲する越後上杉氏が宗家であり、このほかに3つの分家(山本寺氏、山浦氏、上条氏)が存在した。

しかし、上杉定実が越後守護というのは名ばかりであった。

定実は守護代・長尾為景(上杉謙信の父)に擁立されて守護職に就いたという経緯があり、越後国の実権は為景が握っていた。
要は定実は傀儡にすぎなかったのである。

越後守護 vs 越後守護代の戦い

やがて定実は長尾為景の専横を不満に思うようになり、為景と対立するようになる。そして弟の上条定憲(じょうじょう さだのり)をはじめ、揚北衆(=越後北部の国衆)らを結集して為景と戦い、春日山城を占拠するなど、断続的に戦ったのであった。

こうした越後の内乱の中で、定満は定実に従って長尾為景討伐軍の一翼を担ったようである。

1536年(天文5年)には春日山城下で敗北して為景に降伏したといい、以後は長尾為景、晴景、景虎(のちの上杉謙信)の長尾三代に渡って仕えたという。

ただし、一方で全く違う説もある。

そもそも長尾為景とは敵対しておらず、逆に兵を挙げて為景を助け、その功で為景から受領名・駿河守を授けられたという。天文年の間には為景に従って加賀で戦い、大功を立てて松任城の城主になったという。

謙信に仕え、軍師に?

謙信に仕えた時期の史料はあまり残されていないが、1551年(天文20年)に景虎(謙信)の家督相続に不満を持っていた坂戸城主・長尾政景が謀反を起こした際、景虎(謙信)に味方して功をあげたという(坂戸城の戦い)。

永禄年間(1558年~)の頃にはすでに70歳を超える老齢で隠退していたといわれている。

謙信の初の関東遠征となった1561年(永禄4年)の小田原城の戦いでは、上杉軍は1ヶ月に及ぶ小田原城包囲の後に鎌倉へ兵を引いたが、このとき定満が城の包囲を解くように謙信に進言したという。

我が身を犠牲に

1564年(永禄7年)、定満に最期のときが訪れた。

長尾政景に招かれ、坂戸城近くの野尻池で舟を浮かべて酒盛りをしている最中、長尾政景と共に溺死したのであった。これは一説には謙信の命で長尾政景を粛清するためであったと言われている。


墓所

  • 新潟県南魚沼市雲洞の雲洞庵
  • 長野県上水内郡信濃町野尻にある琵琶島(野尻湖)

宇佐美定満の略年表

  • 1489年(延徳元年)、誕生。
  • 1535-36年(天文4-5年)、長尾為景(上杉謙信の父)と戦うも敗戦して降伏。
  • 1550年(天文19年)、坂戸城主・長尾政景との戦いで武功をあげる。
  • 1564年(永禄7年)、坂戸城近くの野尻池で政景と共に溺死。


 PAGE TOP