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直江景綱

直江景綱(なおえ かげつな、1509?-1577年)は越後守護代・戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣で上杉四天王の一人に数えられる。長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の3代に仕えた。

直江景綱の経歴

直江氏は元々、越後守護・上杉氏の家臣・飯沼氏の被官であったが、守護代・長尾為景が飯沼氏を滅ぼした後、その居城・本与板城(後の与板城)の城主となる。越後守護・上杉定実の養子問題を巡る天文の乱(1542-48年)の際には、中条藤資、平子氏らと共に入嗣推進派を形成し、伊達氏へ時宗丸(伊達実元)の迎えの使者にあたった。

長尾家中での家督問題では景虎(のちの上杉謙信)を支援した。景虎が長尾家当主になってしばらくしてから突如、出家・隠居することを宣言した出家騒動(1556年)以後に、本庄実乃らと共に奉行職として内政や外交面において多くの政務を任されるようになる。
景虎の2度目の上洛の際には、朝廷・幕府との折衝にあたり、前関白の近衛前久(当時は前嗣)が越後に来訪したときにはその饗応役を務めた。

また、軍事面においても第四次川中島の戦い(1561年)で小荷駄奉行を務め、謙信の能登遠征(1576年)の際には従軍し、石動城の守備につくなどした。

直江景綱の略年表

  • 1509年(永正6年)頃、誕生。
  • 1539年(天文8年、守護・上杉定実の養子問題では伊達稙宗の三男・時宗丸の入嗣推進派を形成。
  • 1542年(天文11年)、時宗丸(伊達実元)の迎えの使者を務める。同年、伊達家の内乱・天文の乱が勃発。
  • 1547年(天文16年)、上杉家の晴景と景虎の家督争いでは景虎を支援。
  • 1559年(永禄2年)、景虎上洛の際、神余親綱とともに朝廷、幕府との折衝にあたる。
  • 1560年(永禄3年)、前関白の近衛前久の越後来訪時に饗応役を務める。同年、景虎の関東遠征中は春日山城の留守居を任される。
  • 1561年(永禄4年)、第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行(=兵粮や弾薬、陣地設営道具などを運ぶ部隊)を務める。
  • 1562年(永禄5年)、大和守に任官し、「政綱」と改名。
  • 1564年(永禄7年)、謙信のかつての諱「景虎」から一字を拝領して「景綱」と名乗る。
  • 1576年(天正4年)、能登遠征に従軍。
  • 1577年(天正5年3月5日)、病死。


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