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「柿崎景家」戦場で常に先鋒を務めた鉄砲玉

柿崎景家の肖像画
柿崎景家は越後国の戦国大名・長尾氏(上杉氏)の家臣で上杉四天王の一人に数えられ、上杉軍において先鋒を務めた筆頭格の猛将として知られる。

為景・謙信2代に仕え、常に先陣を務める

1513年(永正10年)に柿崎利家の子として誕生したというが、生年には異説もあって定かではない。

長尾為景の代から仕え、1534年(永正10年)には長尾氏の菩提所の林泉寺の住職・天室光育(てんしつこういく)を招いて、柿崎浜(現在の新潟県上越市柿崎区)に楞厳寺(りゅうごんじ)を建立したという。

為景時代から戦功をたて、柿崎氏の当主となって和泉守を称したといい、為景死後には晴景に仕えたが、のちに景虎(のちの上杉謙信)が頭角を表し、晴景と家督を巡る対立が起きた際には景虎を支持した。

のちに家督継承した景虎に仕えるようになり、先頭に立つ部隊の大将として重用された。
戦場では常に先頭に立ち、その名を聞いただけで敵将たちは逃亡したというほどの猛者であり、その剛将ぶりは遠く中国地方にまで聞こえていたという。

景虎が若いあるとき、敵将の娘である伊勢姫と恋仲になったと聞いた景家は、抗議して関係を絶たせ、伊勢姫はその後出家して自決した。これがきっかけとなり、謙信は生涯妻を娶ることはなかったという。

1559年(永禄2年)の謙信の再上洛の帰国後、諸将らが謙信に太刀を献上して祝賀したが、景家はこのときの披露太刀の衆に名を連ねているという。

武力一辺倒というワケでもない

軍事面ばかりが目立つ印象が強いが、斎藤朝信と共に奉行職を務めている。

1560年(永禄3年)には謙信が居多神社に制札(=禁令・法規などを記した札)を揚げて、府内(= 中世の上越の中心都市のこと)の人々に諸役を免除した際、これらの文書に奉行職として署名している。

同年に謙信が行なった関東遠征には従軍し、その後の謙信の関東管領職の就任式では斎藤朝信と共に太刀持ちを務めたという。

遠征からの帰国直後に勃発し、武田氏と激闘となった1561年(永禄4年)第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、武田軍に突撃して本隊を壊滅寸前にまで追い込んだという。

1570年(元亀元年)、北条氏と和睦した越相同盟の際には、子の晴家を人質として送るなどしており、外交面においても活躍したことがうかがえる。

最期

1573年(天正元年)には謙信の越中攻めにも従軍したが、翌1574年(天正2年)に病死した。
なお、異説として、1575年(天正3年12月)に越中国水島に従軍していたところ、織田信長との内通の噂が流れ、その噂を信じた謙信によって死罪に処されたという(『景勝公一代略記』)。

墓所は楞厳寺であり、同寺には景家夫妻を描いた肖像画も所蔵されている。


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