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甘粕景持

甘粕景持(あまかす かげもち、?-1604年)は上杉氏の家臣で上杉四天王、越後十七将の一人に数えられる。桝形城や三条城の城主。川中島の戦いや新発田重家討伐で功を挙げた。

経歴

生年は不明。出自に関しては残っている諸史料で統一されておらず、よくわかっていない。

初名は景重であり、のちに長尾景虎(後の上杉謙信)から偏諱を受けて景持と称したという。また、長尾為景・景虎・景勝の三代に仕えたとみられるが、定かではない。

1547年(天文16年10月)、景虎が髻山に城を築く際に、完成するまでの仮の砦として、景持が長野県長野市豊野近辺に三日城を築城したという。(江戸時代の書物「信濃のさざれ石」より)

1559年(永禄2年)、景虎は再上洛し、正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁し、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。
この後帰国した景虎に対し、景持は祝いの品として金覆輪(=金または金色の金属を用いて作ったもの)の太刀を進呈している。

1560年(永禄3年)からの景虎の関東遠征に従軍し、その帰路の途中、鎌倉府の鶴岡八幡宮において景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を相続した際には、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親と共に御先士大将を務めている。

川中島の戦いでの伝説

関東遠征からの帰国直後、1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦いでは、殿軍を努めて激戦を繰り広げ、その強さに謙信自らが殿軍となったと勘違いした武田の者が多かったという。なお、この時の戦いぶりは甲斐武田氏の軍記物『甲陽軍艦』でも称賛されているほどである。

謙信の死後の1578年(天正6年)には上杉家のお家騒動・御館の乱が勃発するが、このときは上杉景勝を支持し、戦後は景勝に仕えるようになる。

新発田重家の乱での功

1581年(天正9年)には御館の乱で功をあげた上杉家臣・新発田重家がその恩賞に不満を抱き、謀反を起こした。新潟津を奪取すると同地に新潟城を築城して独立したのである。

ここに長期にわたる越後の内乱・新発田重家の乱(1581-87年)が始まった。

一方で上杉景勝は三条城を新発田重家討伐の兵站基地とし、景持は景勝の命で1582年(天正10年)に三条城の城主を任された。

1586年(天正14年)には新潟城・沼垂城攻略にあたり、上杉軍の鉄砲大将を務めて功を立てた。のちに景勝から称賛されて感状を受けとっている。

豊臣政権以後

天下が平定された豊臣政権下では1595年(天正14年)に家老・直江兼続の命により、蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行を務めた。

その後、主家である上杉氏の移封、1598年(慶長3年)の会津、1601年(慶長6年)の米沢への2度の移封にはともに従っている。

1602年(慶長7年)には米沢に天正寺を建立し、開基となった。

略年表

  • 時期不明、誕生。初名は長重。
  • 1547年(天文16年)、長尾景虎が髻山での築城時、完成するまで仮の砦として長野県長野市豊野近辺に三日城を築城。
  • 1559年(永禄2年)、上洛から帰国した謙信に「披露太刀之衆」の一人として金覆輪の太刀を進呈。
  • 1560年(永禄3年)、謙信の関東遠征に従軍。
  • 1561年(永禄4年)、第四次川中島の戦いで殿軍を努める。
  • 1578年(天正6年)、御館の乱では上杉景勝を支持。
  • 1582年(天正10年)、新発田重家の乱では三条城将として、木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略にあたり、城攻撃の兵站基地を守備。
  • 1586年(天正14年)、新発田征伐では鉄砲大将を務め、武功を立てる。
  • 1595年(文禄4年)、蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となる。
  • 1604年(慶長9年)、米沢にて死去。


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