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直江兼続

直江兼続(なおえ かねつぐ、1560-1619年)は上杉氏の家臣で、のちに筆頭家老となった上杉景勝の懐刀。

経歴

幼少のころより長尾政景の子・顕景(のちの上杉景勝)に近侍していた、または、顕景が謙信の養子となった際に春日山城へ一緒に入城して景勝の小姓・近習として近侍したともいわれている。

謙信死後の家督争い・御館の乱(1578-79年)では父・樋口兼豊とともに景勝方につき、景勝が上杉家の当主となった後は側近として取次役や奏者を務めるようになる。直江信綱が殺害されると、その妻・お船を娶り、婿養子となって直江家を継いで越後与板城主となった。

信長死後の武田遺領を巡る天正壬午の乱(1582年)では、信濃国衆との取次や帰参の窓口を務め、のちに上杉家が秀吉に従属した豊臣政権下に入ると内政・外交面のほとんどを担うようになり、新発田重家の乱の鎮圧、佐渡の平定に貢献。その後、小田原征伐(1590年)や朝鮮出兵(1592-93年)ににも景勝とともに従軍した。

秀吉死去は徳川家康と対立し、謀反の嫌疑をかけられた際に『直江状』と呼ばれる返書で挑発的に反発し、上杉征伐(1600年)を招いた。関ヶ原本戦の西軍敗報が伝わるまで最上義光と合戦を繰り広げ、合戦後には景勝とともに家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。

徳川政権下では家康に忠誠を誓い、治水事業や新田開発、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築き、上杉家を守るため、家康の重臣・本多正信と交流を持つなど徳川家との融和に奔走した。

墓所・史跡

兼続の遺骸は米沢の徳昌寺に埋葬されたが、その後、徳昌寺と林泉寺の間に争いが起こり、敗れた徳昌寺が廃絶したために東源寺に改葬された。その後、藩庁の裁定によって林泉寺に合祀された。

林泉寺(りんせんじ)

越後国守護代・長尾氏、および上杉家の菩提寺。直江兼続と妻・お船の墓もここにある。

  • 所在地:新潟県上越市中門前1-1-1

松岬神社(まつがさきじんじゃ)

秀吉の命で上杉景勝が会津120万石に加増移封されたのに伴い、兼続は米沢城主となったが、そのときに屋敷を構えた場所が松岬神社である。現在は上杉景勝、直江兼続、上杉鷹山などが祀られている。
明治時代、上杉神社に祀られていた上杉鷹山が松岬神社にも分祀された。その後、大正には新たに上杉景勝が、昭和には直江兼続が配祀された。

ちなみに関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)、直江兼続の屋敷は上杉家の米沢移封にともなって移転している。

  • 所在地:山形県米沢市丸の内1-1

略年表

永禄3年(1560年)
樋口兼豊の長男として誕生。
永禄7年(1564年)
謙信の養子となった顕景(後の上杉景勝)とともに春日山城に入り、景勝の小姓・近習を務めたという。

上杉景勝の家老へ成長

天正6-7年(1578-79年)
謙信死後の上杉家の家督争い・御館の乱では父・兼豊と共に景勝方につく。
天正8年(1580年)
景勝印判状の奏者を務めるなど、景勝側近として活動する。
天正9年(1581年)
直江景綱の娘・船の婿養子となって直江家を継いで越後与板城主となる。以後の上杉家は兼続と狩野秀治の執政体制となる。
天正10年(1582年)
本能寺の変後の旧武田領を巡る争い(天正壬午の乱)では信濃衆との取次や帰参の窓口を務める。
天正11年(1583年)
山城守を称す。
天正12年(1584年)
狩野秀治が病に倒れ、兼続の単独執政となる。
天正13年(1585年)
  • 富山の役で秀吉に味方し、佐々成政を牽制。
  • 同年、信濃の国衆・真田昌幸を一時的に従属下に置く。
天正14年(1586年)
上杉家が豊臣に臣従。兼続は従五位下に叙せられる。

豊臣政権下

天正15年(1587年)
秀吉の支援を受け、景勝とともに長年にわたった新発田重家の乱を鎮める。
天正16年(1588年)
景勝とともに上洛して秀吉から豊臣姓を賜り、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。
天正17年(1589年)
景勝とともに佐渡国の本間氏を討伐し、佐渡国を平定。その後の佐渡支配を任される。
天正18年(1590年)
小田原征伐では景勝とともに従軍。
文禄元-2年(1592-93年)
文禄の役では景勝とともに肥前国名護屋に駐屯、その後、朝鮮に渡り、熊川倭城を築城する。
文禄4年(1595年)
景勝が秀吉から越後・佐渡の金銀山の支配を任された際、立石喜兵衛、志駄義秀を金山奉行に命じる。
慶長3年(1598年)
  • 上杉家が会津120万石に加増移封された際、出羽米沢に6万石の所領を与えられる。
  • 同年、秀吉死去後は徳川家康と対立。

秀吉死後

慶長5年(1600年)
上杉家謀反の疑いでの家康からの上洛要求の際、『直江状』と呼ばれる返書で反発。
関ヶ原合戦では西軍に属し、東軍の伊達・最上氏と慶長出羽合戦を繰り広げたが、西軍敗退のため、戦後は家康に降伏した。
慶長5年(1601年)
景勝と共に上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許されるも、出羽米沢30万石へ減移封となる。

江戸幕府下

慶長9年(1604年)
本多正信の次男・本多政重を娘の婿養子にする。
慶長13年(1608年)
"重光" に改名する。
慶長14年(1609年)
本多正信の取り成しで上杉家が10万石分の軍役を免除される。
慶長19年(1614年)
  • 高田城築城の際に伊達政宗の指揮の下で景勝とともに天下普請を行う。
  • 同年、大坂冬の陣に従軍。
慶長20年(1615年)
大坂夏の陣では京都警備を担当した景勝とともに八幡山に布陣。
元和5年(1619年)
同年末に死去。


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