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「長尾晴景」謙信の兄は当主としての器量に欠けていた?

長尾晴景は長尾為景の長子で越後守護代。上杉謙信の兄である。

為景の後を継ぐ

1509年(永正6年)に越後守護代・長尾為景の嫡子として誕生した。

主君の越後守護・上杉定実の娘を娶って"定景(さだかげ)"と名乗ると、のちに12代将軍足利義晴から偏諱を受けて"晴景"と改名した。

1536年(天文5年)には父・為景の後を継いで春日山城主となり、越後守護代を補任されている。

父の為景は下剋上の代表格とされ、主君で越後守護の上杉房能を打ち倒し、その後釜として自ら擁立した傀儡の主君・上杉定実とも越後の覇権を巡って争うなど、常に争いの絶えなかった経歴の持ち主であり、晴景に家督を譲った後も実権は握り続けたともいわれている。

一方で晴景はそんな父とは異なり、越後国内の国衆らとの融和を図るなど穏健な政策を行なっていった。

1542年(天文11年)に為景が病没すると、同年から伊達家では伊達稙宗の三男・時宗丸を上杉定実の養子とするかどうかを巡り、天文の乱(1542-48年)と呼ばれる内紛が勃発した。

この内乱は越後国にも飛び火し、この養子縁組の賛成派と反対派の間で内乱が発生することとなったのであるが、晴景は病弱で守護代としての器量にかけるところもあったといい、この内乱を治められずにいた。

それどころか守護・上杉定実が復権し、上田長尾家や上杉定憲、そして揚北衆らといった守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いにあり、長尾家は窮地を迎えていたのである。

弟・景虎の台頭

そうした中、弟・景虎(のちの上杉謙信)が鮮烈なデビューを果たす。

1544年(天文13年)に晴景を侮った越後国人衆が謀反を起こして栃尾城に攻め寄せてきた。

この窮地に晴景はまだ元服したばかりで15才の景虎を出陣させたのであるが、初陣でありながら謀反を鎮圧し、並外れた指揮官としての才能を見せたのであった。

以後も黒滝城主・黒田秀忠の謀反など、越後国内でたびたび反乱が勃発するが、景虎が都度、晴景に代わって鎮圧していき、家中での名声を高めていった。

家督譲渡・隠居

こうして長尾家中では越後守護代に景虎を擁立する声が高まり、晴景は退陣を迫られるようになっていき、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。

いまにも家督相続争いが勃発しそうな不穏な空気の中であったが、結局、守護・上杉定実の調停のもとで晴景が景虎を養子とした上で家督を譲り、隠退することとなった。

天文の乱が終結する1548年(天文17年)のことであった。


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