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「片倉景綱」小十郎の名で知られた政宗の軍師

片倉景綱の肖像画
伊達政宗への忠義を生涯貫き通した片倉景綱。伊達家中においては「武の伊達実元、知の片倉景綱」と称されるように知勇に優れていた武将で、近年の戦国ブームでの美化は決して大袈裟ではないだろう。政宗が素直に進言を受け入れていたため、景綱はまさに軍師の役割を担っていた人物なのだ。

異父姉・喜多に寄り添って成長

片倉景綱と聞いてあまりピンと来ない人もいるかもしれない。多くの方は「片倉小十郎」という名前の方が馴染みがあるだろう。小十郎という名は片倉家の当主が代々継いでいる名前である。後の小十郎となる景綱は弘治3年(1557年)に片倉景重の次男として生まれた。しかし景綱が幼いころに両親をなくしており、幼い景綱の母親代わりとなっていたのが異父姉である喜多だ。

喜多は父景重の妻である直子の連れ子で、景綱とは20ほど年が離れていた。そのため姉弟というより親子のような関係ではあったが、景綱は産まれてからほどなく養子に出される。しかし養子先の家で男子が産まれたため、喜多の元に戻って一緒に暮らした。
喜多は武芸に通じており景綱に文武両道の教育をしたと言われている。そのため景綱は学問だけではなく、のちの主君・伊達政宗に剣術指導をするほどの腕前になっていた。正宗が生まれた時、喜多は当時の伊達当主・伊達輝宗より政宗の乳母を命じられ、政宗にも景綱同様の教育をし大きな影響を与えた。

主従関係を超えた信頼関係!正宗との壮絶エピソード

景綱が政宗に仕えるきっかけは米沢で起きた大火事だった。景綱の活躍を耳にした輝宗は自身の雑用係として景綱を採用、その後天正3年(1575年)に伊達家家臣、遠藤基信の命で正宗の側近として仕える。この時景綱19歳、政宗9歳であった。

伊達家家臣の目に留まり正宗に仕えてから、景綱は政宗にとって兄のような存在だっただろう。幼い政宗に対しても喜多から受け継いだ「強くあるべき」という教えを持って接していたのかもしれない。それを容易に想像できるエピソードが、政宗の右目をえぐり取った、政宗の腹の腫瘍を麻酔無しで切ったという出来事である。

政宗は幼少の頃から右目が飛び出ていて失明していたが、景綱が「切った方が良い」と進言。切腹を覚悟の上での発言であったが、政宗はこれを実行。その後、内向的だった政宗は右目を切り取ってから快活に変わったと言われている。諸説によると綱重が切り取ったとも、政宗自らが切り取ったとも言われているが、このエピソード自体が確かなものではないことを付け加えておこう。ちなみに独眼竜というあだ名は後世に付けられた名であり、政宗本人は眼帯などは付けていなかった。

政宗の腹に大きな腫瘍ができたときは、自分で切って失敗すれば切腹したようになることを気にして景綱に相談。そこで景綱は丸金を焼き、これで腫瘍が焼き切れるかまず自分の腹で試した。無事切れることを確認した景綱はそのまま政宗の腫瘍を切った。しかし、政宗は1か月ほどで治ったが、試し切りした景綱の方は治るまで2か月以上かかり、さらには乗馬の際に足がつるなど後遺症が残ったことを政宗に話していた。また景綱は忠誠心も強く、妻が重長を身ごもった際には「主君より男子を設けることはならぬ」と我が子を殺すこともいとわなかったという。しかし、政宗から説得されて重長は無事に生まれてきた。

人徳も持ち合わせた景綱

景綱は合戦がない時は伊達藩の内政に勤めていたが、天正13年(1585年)からは政宗と共に数々の戦に参戦。常に政宗の傍らにあり、その知略で伊達家の窮地を幾度ともなく救ってきた。まさに軍師として活躍目まぐるしかったが、特に天正18年(1590年)の小田原征伐では、参戦を渋っていた政宗に対し、秀吉側に付くよう進言。 父輝宗から続く北条家との同盟ともいえる関係を断つことを決断させた。しかし、小田原征伐への参戦が遅れたことや天正17年(1589年)に政宗が会津へ攻めたことに対し、秀吉は良く思っていなかった。そのことから伊達藩の領土を一部取り上げる奥州仕置を行い、元々150万石あった伊達藩は約半分の72万石まで減らされてしまった。秀吉はこの措置によりなかなか手が届かなかった奥州の地を支配して天下統一の仕上げとなった。

その後、景綱は天正19年(1591年)に亘理城に移り病の療養中であった。慶長7年(1602年)には政宗が仙台藩の藩主になり、一国一城制が敷かれるようになったが、特例で残された白石城の城主を命じられ白石城へ移った。

慶長19年(1614年)、景綱が58歳の時に大阪の陣が起こるも病のため正宗に同行できず、景綱は息子である片倉重長を参戦させた。重長はこの大阪の陣で敵将である後藤基次を討ち取り「鬼の小十郎」と言わしめる活躍をした。また重長の子景重も小十郎として伊達家を支えた。

そして翌元和元年(1615年)に享年59歳で死去。その際、景綱の家臣6人が後を追って殉死したと言われている。晩年の景綱は大層太っていたそうで、政宗が体を気遣った軽い鎧を与えられたという。

忠義の人そのものであった景綱

景綱は武道や学問に長け、忠義心も厚く人徳に優れていたことが分かる。 これだけ優秀な人物だったためその噂は秀吉の耳にも届いていた。奥州仕置の際には直臣の大名になるよう打診があったが、景綱は正宗にのみ仕えるとこれを断わっている。文武両道に人徳、忠義心。ここまでの人物ならゲームやアニメで見るだけでなくその生き様から学べることは多いだろう。


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