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「人取橋の戦い」父輝宗の弔い合戦も、敗戦で南奥羽の主導権を失う。
──天正13年(1585年)

合戦の背景

戦国時代初期、伊達稙宗とその子・晴宗の壮絶な親子喧嘩、いわゆる天文11-17年(1542-48)の6年にもわたる天文の乱により、東北の勢力は大きく様変わりした。おそらくこの乱で最も得をした勢力は今の会津地方に割拠していた蘆名氏だろう。当主の蘆名盛氏はその手腕をもって蘆名氏の最盛期を作りあげることに成功する。

盛氏の死後、嫡男は早世していたために、二階堂盛義の息子である盛隆が蘆名氏の跡を継いだ。だがどうもこの盛隆、養父と比べて人望や器量はなかったうえに男色(当時としては当たり前であったが)の気があったようで、天正12年(1584年)に男色のもつれが原因で家臣によって殺害されてしまう。この時盛隆24歳、後継者はいたものの生後わずか1か月の赤ん坊であり蘆名氏の勢力圏は大きな動揺に見舞われた。

このような会津地方の混乱に乗じたのが、天文の乱の傷がようやく回復した伊達氏である。

ちょうどそのころ塩松地方に拠っていた大内定綱が伊達氏と敵対していたが、定綱は伊達に敗れ蘆名領に落ち延びる。伊達氏では、 伊達輝宗が隠居して子の政宗が家督を継承。しかし、大内氏を討伐するついでとばかりに臣従させた二本松氏の当主・二本松義継によって、天正13年(1585年)の10月8日に輝宗が死亡してしまう事件が起こる。この事件にぶちぎれた政宗は、その一週間後にお礼参りとばかりに1万3千もの大軍で二本松討伐を敢行。二本松氏の居城、二本松を取り囲んだのである。

合戦の経過

攻め込まれた二本松氏は、輝宗死亡の際に同時に当主の義継が殺されたものの、その遺児である国王丸を擁立して籠城戦を展開し、それと同時に周辺の大名たちに援軍を要請した。約1か月後には、常陸の佐竹義重、相馬義胤ら連合軍が挙兵し、二本松城に3万ともいわれる大軍を差し向けた。

【人取橋の戦い 周辺マップ】


この報を受けた政宗は、自国領内におとなしく引き返せばよかったものを、わざわざ連合軍との決戦を決断する。二本松城の包囲部隊や伊達方の城塞守備部隊を除いた7千の部隊で本宮城を経由し、瀬戸川にかかる人取橋で連合軍を迎撃。だが、佐竹義重や相馬義胤も名将と言える人物だったうえに、数の面でも圧倒的不利だったことから伊達軍はわずか1日で壊滅。このとき政宗も怪我をするほど連合軍に自陣深く攻めこまれており、政宗を逃がすために老臣の鬼庭左月斎が殿を務めて壮絶な討ち死にを遂げている。

一方、主戦場から少し離れた場所に布陣していた伊達成実の部隊に対し、連合軍が攻撃を仕掛けてきた。だが、成実は奮戦して連合軍を抜かせず、政宗の撤退をサポート。戦場から撤退した政宗は命からがら本宮城に逃げ帰った。一方で、連合軍も夕方近くなっていたことから、それ以上に追撃を行わずに人取橋の戦いは伊達氏の惨敗という形に終わったのである。

戦後

人取橋で勝利を収めた連合軍だったが、その夜に義重の家臣が殺害される事件が発生。さらに佐竹氏と敵対している相模の北条軍が佐竹領近辺に出没してきたため、義重は関東方面に目を向けざるを得なくなった。一方、この合戦の後、政宗は再び二本松城を攻めたが二本松氏の家臣団の奮戦と佐竹軍を除いた後詰部隊によってなかなか二本松城を落とせなかった。

結局のところ、籠城側が二本松城を退去するという条件で二本松城は開城。政宗は二本松城を手に入れることができた。 しかし、この二本松城の確保は伊達氏にとって非常に高い買い物であった。人取橋での敗戦はもちろんであるが、今まで自分たちが主導権を握ろうとしていた南奥地方がこの戦役によって佐竹氏を中心とする連合軍が主導権を握ったことで伊達氏の影響力が一時的に低下してしまったのである。

伊達氏が制圧した二本松城には伊達成実が入り、ここを拠点として蘆名氏の攻略戦を行うものの伊達氏は一気に形勢が不利になり、2年後の天正16年(1588年)大崎合戦郡山合戦において滅亡の最大の危機に陥ることになる。

結局、この危機は政宗の実母である義姫や成実の活躍によって窮地を脱することができたものの、伊達氏が奥州の覇権を確立するのは、さらにその翌年の摺上原の戦いにおいて、蘆名氏を滅ぼして会津地方を手に入れるまで待つこととなる。


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