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「大崎合戦」政宗、大崎氏の内紛に介入!意外な人物の登場で合戦は収束へ。
──天正16年2月(1588年)

合戦の背景

伊達氏では、天文の乱によって勢力が大きく失われたが、伊達政宗の父・輝宗の代にはかつての勢力圏をほぼ回復し、再び南奥羽全域を掌握するまでに至った。だが、天正12年(1584年)に家督を継いだ政宗は、戦略方針を急激に転換して軍事行動を引き起こし、輝宗の死をきっかけに南奥羽の外交秩序は破綻し、伊達氏の従属下にいた多くの勢力の離反を招いてしまう。

伊達領の北側に位置していた奥州探題の大崎氏もまた、伊達氏から独立しようと模索していた。そんな時、天正15年(1587年)に大崎家中で、当主・大崎義隆の2人の寵童、新井田刑部と伊庭惣八郎による争いが内紛に発展。新井田刑部は大崎氏の執事である氏家吉継と伊庭惣八郎らを討ちとり、主君である大崎義隆に切腹を命令させようと計画し、政宗に奉公することを約束として援軍を要請。だが、新井田一党はあっさりとその約束を破り、義隆を同行させて氏家吉継ら反対派を討つために動いた。

これに窮した氏家吉継は、片倉景綱を通じて政宗に援軍を願い出た。政宗は以前から最上義光や佐竹義宣らと敵対していたこともあり、伊達領の北に位置する大崎義隆をなるべく早く討ちとりたいと考えていた。そのため、氏家党を救済するという名目を得るために吉継の願いを受け入れ、陣代として浜田景隆を任命し、留守政景・泉田重光らを出兵させたのである。

合戦の経過

一方、大崎義隆は南条隆信を守将に任命し、中新田城で籠城戦を展開。政宗が大崎領に送り込んだ兵の数は1万とも5千ともいわれる。

【大崎合戦 周辺マップ】


2月2日、伊達軍先陣は中新田城を攻めたが、城周辺の低湿な土地と突然の大雪によって思うように身動きがとれなくなり、撤退を余儀なくされた。これをチャンスと判断した大崎義隆が城から出撃してきたため、伊達軍は打撃を受けた。さらに留守政景の岳父で鶴楯城の城主・黒川晴氏が大崎方に寝返り、伊達軍を後方から襲撃。これにより、伊達軍は南北両方から挟まれて追い詰められ、新沼城へ撤退したが、さらに追ってきた大崎軍によって城を囲まれてしまう。

23日、新沼城に閉じ込められた留守政景は、泉田重光と長江勝景を人質として差し出す代わりに城の包囲を解除することを条件にして和議を結び、政景は新沼城から出て残った兵と収容しつつ後退した。また、大崎氏の分家である最上義光は大崎軍に加勢し5千人の兵を送りこむことにより、伊達領の黒川と志田を攻め落とした。

一方で、この間に伊達領の南方では、蘆名義広が大内定綱を派遣することで苗代田城を攻め落とすなど、郡山合戦と呼ばれる蘆名・相馬連合軍との一連の戦いが始まっていた。さらには伊達側の小手森城主である石川三昌が相馬義胤を頼ることで離反することに。
このように伊達氏は南北の両方から攻め込まれ、次第に追い詰められていった。

戦後

だが、意外な形で合戦は収束することに。同5月に、政宗の母でかつ、最上義光の妹でもある義姫が両陣営の間に割って入り、兄義光に伊達領の北方での戦争を終わらせるよう願い出たのである。実のところ、義光もまた、義姫に和解のために政宗に掛け合って欲しい旨の手紙を送っていたという。

7月には、大崎氏に差し出されていた人質の泉田重光を山形城に連れていき、引き続き人質を継続するという条件で和解。その後も、政宗から離反した黒川晴氏や主君・大崎義隆と敵対した氏家吉継らの赦免について、義姫が義光と話し合いをするなど、大崎氏の内紛に対する解決の交渉は続き、9月になってようやく和解が成立したのである。

その後の大崎氏は、天正17年(1589年)摺上原の戦いで政宗が蘆名氏を滅ぼすと、その圧迫の強さに耐えられず、伊達氏にまた屈服することになる。


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