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伊達政宗の名言・逸話まとめ

政宗の才能・嗜好

ずば抜けた記憶力

政宗は年少のころよりずっと、横たわらずに柱に寄りかかって仮眠することがあり、片時も時間を無駄にすることなく常に手から書物をもっていた。生まれつき記憶力がよく、他の藩の家臣や商人でも一見すれば、姓名や風貌まで必ず忘れることはなかったという(『名将言行録』)。

虎哉和尚と政宗

虎哉宗乙和尚は「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」の辞世で有名な甲斐 恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)和尚の弟子で、快川紹喜和尚が武田信玄や竹田勝頼に教えを諭していたように、禅の問答から権謀術数を知った虎哉和尚はこれを政宗に叩き込んだという。また、「目に見える事だけが本当の姿ではない、目に見えぬ事によって本当の姿が変わる事もある」つまり、騙されたくなかったらすべてを疑えといった教えも虎哉和尚から政宗へ教え込まれた。

多才

禅師であった臨済宗妙心寺派の虎哉和尚(こさいおしょう)からの教育や、伊達家の重臣で近習となった片倉小十郎景綱に鍛えられて成長した政宗には、詩歌や書、能、茶道など、多くの才能があったという。
また、文化・教養人としても知られ、常に文芸の場をもうけて文人を招いたという。後水尾天皇より和歌を激賞されたこともある。晩年は能に熱中し、政宗が従四位下右近衛権少将の官位を賜った際には秀吉の前で披露した、程の鼓や太鼓の名人でもあった。

独眼

独眼について、政宗本人は「枝が刺さってしまったのを自分で引き抜いて食った」とうそぶいている。また、隻眼(=独眼)にコンプレックスを持っていたようで、現在に残る当時描かれた肖像画などの多くには右目が描かれている。

一説に、右目を失明した政宗を母の義姫が忌み嫌い、それが後にお家騒動(母義姫の弟である伊達小次郎を次期当主に据えようと画策して政宗を毒殺しようとした事件)につながったといわれ、また、他説では、失明したのは奈良時代の伝説の高僧 万巻上人の生まれ変わりである証拠だと感銘され、万巻上人の死後にまで残る人徳を大いに讃えた、ともいう。

料理ともてなしの心

かりそめにも人に振舞ふとあらば、料理第一と心得よ(『命期集』)

「かりそめにも人に振舞うとならば、心のこもった料理が第一である。」という意味。
政宗は人を招いた時、料理に関して家臣に直々に命じるほど気を遣ったという。つまり、もてなしの心を大事にしたのである。

現在の仙台の食文化の礎を築いたのは政宗のこうした趣味のおかげともいう。また、戦において重要な保存食などの研究も熱心に行っていた。こうした政宗の研究によって生まれたのが "ずんだ餅" と "凍み豆腐" だという。

豊臣政権と政宗

小田原遅参で死に装束

豊臣政権による小田原征伐(1590年)の際、秀吉から味方として参戦を要請された政宗だが、遅参となって秀吉の怒りを買った。 このとき秀吉と初めて対面した政宗の姿は、甲冑の上に白い喪服を着るという「死に装束」姿であったという。

金銀箔の磔柱

小田原征伐後の葛西大崎一揆(1590年)の鎮圧の際、政宗は蒲生氏郷とともにその任務をまかされたが、"政宗が一揆軍と内通していた" とのうわさが立った。秀吉はこれに怒り、詰問するため政宗に対して上洛要請を出した。
このとき政宗は金銀の箔を張った磔柱を行列の先頭にたてて上洛したという。これは、もし政宗が磔の刑となったとき、普通の磔柱では無念千万と思っての用意であったという。

秀吉ののぞき見と政宗の先回り

太閤秀吉は大きな猿を飼っていて、諸大名らの登城の際に通る場所に猿をつないでいた。
猿が歯をむき出してて諸大名らに飛びかかり、彼らが驚く様子をのぞき見して楽しんでいたのである。

政宗はこのことを聞いて、その猿をひそかに借りて自分を恐れるように調教し、いざ政宗が登城した際に猿は委縮してしまったという。
その様子をのぞき見していた秀吉は、「政宗の曲者め、また先回りをしたな」と言って笑ったという。(『名将言行録』)

秀吉の饅頭

秀吉が舟遊びにでたとき、政宗もお供するはずだったが、遅刻して舟に乗り遅れた。

これに政宗は馬に乗って舟を追いかけ、着船したところまで行き、秀吉の前に参上すると、秀吉からその武者ぶりを称えられて饅頭を拝領した。
そこで政宗は家臣を呼び寄せて、「上様から拝領したから、ありがたく頂け」と、その饅頭を残らずに分け与え、みなを感動させたという。

豪華絢爛な出で立ちで行進

朝鮮出兵(1593年、文禄の役)で秀吉から渡海を命じられた際、政宗の居城は遠い東北の地であったため、200余の軽い軍役を課せられたが、政宗はそれ以上の1000余の軍で東北の地を出発した。
そして京についたとき、政宗の軍勢をみた人々はみな驚いて大歓声を上げた。政宗隊のまとった武具は金銀まぶしく、豪華絢爛であったためである(『常山紀談』ほか)。

大阪の陣

無意識の恐怖心をはらう

大阪冬の陣のとき、政宗は馬に乗って城を見て回ったが、その際に銃弾が飛んできて思わず身を引いたのを残念に思い、それからは馬から降りて歩いて敵城のすぐ近くまで行って堀をのぞき込み、銃弾がひっきりなしに飛んでくる場所でしばらく立ち止まってからそこを退去したという(『名将言行録』)。

味方討ちをした理由

大阪夏の陣で政宗が味方の神保を討ったことで家康に咎められたとき、「入り乱れての大軍では敵味方見分けることなどできない」と言ったという(『名将言行録』)。

死人に口無し

大阪夏の陣で政宗は家康に「今回の大軍の中に異心を抱く者もおらず、立派なお手柄でした」と言い、家康が「今回のような勝ち戦のときは、敵は皆討ち取ってしまった故、そういった者がいたかどうかもわからずじまいであろう。全くいなかったとも思えぬ。」と言い返した。
すると政宗は、「いかにもおっしゃる通りです。我らのような家来の中に異心を抱く者はいたでしょうが、勝ち戦のため、死人に口無しで、敵に口がないのでわからないこともありましょう。」と答えたという(『名将言行録』)。

その他

名物の茶碗を砕く

政宗が名物の茶碗をみようとして、それを落としそうになって動揺したときのこと。
「名器とはいえ、残念だ。これまで驚くことがなかった自分が、茶碗の値打ちの高さに心を奪われて驚いたとは、口惜しい」と言い、その茶碗を庭石に打ちつけて木端微塵に砕いたという。(『名将言行録』)

薬を多用

病気などまだ軽いからと油断することは不心得である。物事は小事から大事が起こるのだ。決して油断するな。(『名将言行録』)

政宗はちょっとした病でもかならず薬を使って養生したという。

政宗の遺訓

伊達政宗五常訓

に過ぐれば弱くなる。
に過ぐれば固くなる。
に過ぐれば諂(へつらい)となる。
に過ぐれば嘘をつく。
に過ぐれば損をする。

上記は儒教が説く"仁・義・礼・智・信"の五常に基づく政宗の教訓である。

つまり、「人のためを思いすぎると相手のためにならない。正しくあろうとしすぎれば堅物になる。礼儀が過ぎると媚びになる。 利口過ぎると嘘をつく。人を信じすぎると損をする。」ということである。

辞世の句

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く

「何も見えない真っ暗闇の中で、月の光を頼りに道を進むように、戦国の先の見えない時代の趨勢を自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた一生だった。」という意味。


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