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伊達稙宗

伊達稙宗(だて たねむね、1488-1565年)は伊達氏の第14代当主。
中央との結びつきや婚姻外交によって伊達家を一気に勢力拡大させ、陸奥守護に補任されるほどにまで至る。 その後、分国法「塵芥集」の制定や徴税台帳の作成など、伊達家の体制強化に取組んでいく。 他国との外交政策をめぐって子の晴宗らとの争いが勃発(天文の乱)。
最終的に降伏して家督を晴宗に譲り、隠居を余儀なくされた。


経歴

1488年(長享2年)、第13代当主伊達尚宗(だて ひさむね)と積翠院(せきすいいん、上杉房実の娘)との間に誕生。慣例によって第11代将軍の足利義高(よしたか、後の義澄)から偏諱を受けて高宗(たかむね)と名乗った。

1509年頃に家督の継承があったとされ、10代将軍義稙が一時的に京都を奪還すると、お祝いとして進物(太刀一振、銭20貫)を送り、義稙からは返礼として月壺作の三幅一対絵を贈られた。

勢力拡大

1514年(永正11年)、父の尚宗の死去にともない正式に家督を相続し、第14代当主となる。

稙宗には正室の他に5人の側室がおり、生涯で14男7女(現時点で判明している人数)もの子を設けて、その子らを家臣や大小の領主と結婚、養子入りさせることで自らの指導的地位を確保していった。

蘆名・相馬・大崎・中条・下館・二階堂・田村・懸田・中館・梁川・亘理・桑折・葛西・村田氏らが縁者となった。

稙宗はこうした婚姻外交に加え、中央との結びつきを家格の上昇に利用するなどして急激に勢力を拡大していく。

永正同年には羽州探題の最上義定を長谷堂城(現在の山形県山形市)にて破り、妹を最上義定の室として送り込むことで実質的に最上氏を支配下に置いた。
また、1517年(永正14年)に10代将軍義稙が上洛した際にはお祝いとして再び多額の進物(太刀一振、黄金30両)を、管領の細川高国へは太刀一振と黄金20両を贈っている。このとき、細川高国を通じて足利義稙の一字を拝領したい旨を願い出て許可を得た高宗は、"稙宗"と改名、さらに、これまで奥州探題の大崎氏が世襲していた官位・左京大夫に任官した。

・第10代将軍 足利義稙は、第11代将軍 義澄の将軍廃位後に将軍職に復帰。
・高宗の偏諱、任官の申請について足利義稙としては拒否をする意向を示していたが、細川高国の判断でこれらが認められることになったため、後に義稙と高国の関係を悪化させる一因になったともいう。

1520年(永正17年)に最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定の未亡人を介して稙宗に影響力を行使されることを嫌がった最上の諸将が反旗を翻した。
これに稙宗は激しい勢いで上山城、山形城、天童城、高擶城を陥落させると、1521年(大永元年)には寒河江を攻め、一か月におよぶ対陣ののち、寒河江氏と和議を結んだ。これらの戦いによって最上郡及び村山郡の南を支配下に置きました。

1522年(大永2年)、稙宗は"陸奥守護"に補任された。室町幕府において陸奥・出羽は守護を置かずに探題や国人による支配だったため、このことは異例なことであった。

伊達家の体制強化

1532年(天文元年)、稙宗は後に伊達氏300年の本拠城であったともいわれた梁川城(現在の福島県伊達市)から西山城(現在の福島県桑折(こおり)町)に居城を移し、伊達家の体制強化に努めていった。

  • 1533年(天文2年):「蔵方之掟」制定、「棟役日記」作成
  • 1536年(天文5年):分国法「塵芥集」制定
  • 1538年(天文7年):徴税台帳「御段銭帳」作成

「蔵方之掟(くらかたのおきて)」は質屋に関する法令で13条からなる。また、「棟役日記(むねやくにっき)」は各家一件ごとにかけられた税を取りまとめ、徴収に関する責任者の名を記したものである。

「塵芥集(じんかいしゅう)」は171条にも及ぶ詳細な分国法で、神社仏閣や盗賊・殺傷沙汰・土地売買・婚姻・損害賠償など、刑事から民事に至るまでの細かい規定が定められており、さらには学に疎い者でも読みやすいようにカナを交えた文体が特徴で、濁点が三点符になっていた。
しかし、この法が稙宗の治世において実際に施行されることはなかった。

「御段銭帳(たんせんちょう)」は、領内の田畑の面積を測り記したもの。段銭は、元は公儀のための臨時税であったものの、幕府の衰退とともに領主の私税となっていった。

また、同年、大崎氏の内乱を鎮圧するため、大崎義直(大崎氏最後の奥州探題)の要請に応じて南奥州の諸侯(諸大名ら)を従えて出動するが、その代償として二男の義宣を入嗣(にゅうし、養子として家に入る又は婿入り)させ、この結果、事実上奥州、羽州の両探題職を伊達氏の統制下に置くことに成功した。

子・晴宗との争い

しかし、三男の時宗丸(伊達実元)を越後守護の上杉定実へ入嗣させようとしたことや、長女の婿・相馬顕胤へ伊達領の一部を分け与えようとしていたことをめぐって、長男の晴宗や重臣の中野宗時や桑折景長らとの対立を次第に深めていった。
そして、1542年(天文11年6月)、鷹狩りに出た稙宗の帰途を長男の晴宗らが襲撃、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されてしまった。これにより晴宗らは実元の入嗣を阻止することに成功するが、稙宗は家臣の小梁川宗朝により西山城から救出され、さらには奥州諸侯を束ねて晴宗と争う構えを見せたことにより、父子間での戦争、天文の乱が勃発。

はじめは稙宗方が優勢であったが、1547年(天文16年)にそれまで稙宗を支持していた蘆名盛氏が、田村氏や二階堂氏と対立したために晴宗方に寝返り、それにより形勢が逆転した晴宗方が優位なまま1548年(天文17年3月)に13代将軍足利義輝の仲裁を受け、天文同年9月、晴宗に降伏する形で和睦が成立。
これにより稙宗は家督を晴宗に譲り、丸森城に隠居することを余儀なくされた。

1565年(永禄8年6月19日)、丸森城にて死去、享年78。

戒名は智松院殿直山円入大居士。稙宗の遺骸は、自らが1513年(永正13年)に開基(かいき、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者)となった陽林寺(ようりんじ、曹洞宗、現在の福島県福島市)に葬られた。

略年表

  • 1488年(長享2年)、誕生。
  • 1514年(永正11年)、家督を継ぎ、伊達氏第14代当主になる。
  • 1522年(大永2年)、陸奥守護に補任される。
  • 1532年(天文元年)、梁川城から西山城へ居城を移す。
  • 1533年(天文2年)、「蔵方之掟」制定、「棟役日記」作成。
  • 1536年(天文5年)、分国法「塵芥集」制定。
  • 1538年(天文7年)、徴税台帳「御段銭帳」作成。
  • 1542年(天文11年)、長男の晴宗らとの戦い、「天文の乱」が勃発。
  • 1548年(天文17年)、13代将軍足利義輝の仲裁で「天文の乱」が終結。
  • 1565年(永禄8年6月19日)、丸森城にて死去。


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