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伊達輝宗

伊達輝宗の肖像画

伊達輝宗(だて てるむね、1544-1585年)は伊達家第16代当主で伊達正宗の父。
家督相続後は家中の統制を図るため、天文の乱で実権を得た重臣の中野宗時・牧野久仲親子を謀反の疑いで追放、さらにこの件で非協力的な家臣らを処罰していく。 一方で鬼庭良直を評定役に、中野宗時の家臣・遠藤基信を外交担当として抜擢。
蘆名氏との同盟関係を保つなど、父・晴宗の方針を引き継ぎ、天文の乱によって後退していた伊達家の勢力を伊達稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復させ、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。

経歴

1544年(天文13年9月)、第15代当主伊達晴宗と岩城重隆の娘・久保姫との間に次男として誕生。幼名は彦太郎(ひこたろう)。長兄の岩城親隆が母方の祖父の岩城重隆の養子となっていたために、次男の輝宗が世子となった。

1555年(天文24年3月19日)、元服して13代将軍の足利義輝の偏諱を受け、総次郎輝宗と名乗った。

1564年(永禄7年)、最上義守の娘・義姫を正室に迎え、同年末頃には家督を継いだ。しかし、この時点では父・晴宗、そして天文の乱の際に実権を得た重臣の中野宗時・牧野久仲親子に握られていた。

1567年(永禄10年8月3日)には嫡男の梵天丸(後の伊達政宗)が誕生。政宗の教育にはとても熱心であり、1572年(元亀3年)に甲斐国(かいのくに)から「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」の辞世で有名な快川紹喜(かいせん しょうき、臨済宗の僧)の弟子である臨済宗の虎哉宗乙(こさい そういつ)禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者や僧を伊達家の居城であった米沢城に招き、さらに家中からは片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)、屋代景頼、湯目景康ら多くの有望な若手家臣を選んで、早くから政宗に仕えさせていたという。その結果、長男の政宗には詩歌や書・能・茶道など、多くの才能があったといわれている。

1570年(永禄13年4月)、家中の統制を図り、中野宗時に謀反の意志が有るとして、牧野久仲の居城・小松城を攻め落として中野親子を追放。この際に非協力的であった小梁川盛宗(こやながわ もりむね)、白石宗利(しろいし むねとし)、宮内宗忠(みやうち むねただ)らを処罰した。
一方で、同年に義姫の実家の最上家でも最上義守、最上義光親子の間で抗争が始まった。輝宗は義守に味方をして義光を攻めたが、母の義姫が輝宗に対して撤兵を促したため、輝宗は兵を引いた。

こうして実権を手にした輝宗は、鬼庭良直を評定役(=仙台藩の職名で司法裁判を司る)に抜擢して重用。さらに中野宗時の家来であった遠藤基信の能力を見込んで家来として雇い、外交を担当させた。
この鬼庭良直、遠藤基信 両名を中軸とする輝宗政権は、父 晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽の諸侯間の紛争を調停し、さらには幅広い外交活動も展開していく。

1575年(天正3年7月)に織田信長に鷹を贈ったのをはじめ、遠藤基信に命じて北条氏政や織田家臣の柴田勝家と頻繁に書簡や進物をやりとりすることで友好関係を構築していく。

1578年(天正6年3月13日)に越後・上杉家では上杉謙信の死により、家督をめぐって養子の上杉景勝と上杉景虎が対立して戦いに発展した(御館の乱)
このとき輝宗は対相馬戦を叔父の亘理元宗(わたり もとむね)に一任して、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に景虎方として参戦するが、乱は景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に阻まれて成果を得ることが出来なかった。

上杉家ではその後、御館の乱における論功行賞の際に新発田勢の軍功がないがしろにされて、さらには仲裁を図った安田顕元が自害した。そして1581年(天正9年)には新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻した。
このとき輝宗は蘆名盛氏の後継である蘆名盛隆とともに重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。結果、新発田の乱は泥沼化し、7年にもわたる長期戦となる。

対相馬氏との戦い

一方で、対相馬戦においては相馬盛胤(もりたね)・義胤(よしたね)親子に苦戦して戦局がなかなか好転ぜすにいたが、1579年(天正7年)に田村清顕(たむら きよあき)の娘の愛姫(よしひめ/めごひめ)を嫡男の政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図った。

1582年(天正10年)に小斎城(こさいじょう)城主・佐藤為信を味方につけると、翌1583年(天正11年5月17日)には、ついに天文の乱以降最大の懸案事項、重要拠点の丸森城の奪還に成功した。

1584年(天正12年1月11日)には金山城も攻略すると、輝宗は伊具郡全域を回復できたことにより停戦を決め、天正同年5月には祖父・稙宗の隠居領のうち伊具郡を伊達領に、宇多郡を相馬領とすることで和平を成立。これにて伊達家はようやく稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。

家督譲渡と隠居後

10月6日に蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか1ヶ月で当主となった盛隆の子の亀王丸(かめおうまる)の後見となる。これを期に輝宗は政宗に伊達家の家督を譲って隠居、修築した舘山城に移った。移城後、輝宗は越後介入に専念するつもりだったが、政宗が上杉景勝と講和し、伊達・蘆名・最上の共同での越後介入策を放棄したため、蘆名の家中において伊達家に対する不信感を増大させることになる。

1585年(天正13年)春、岳父の田村清顕の求めに応じ、伊達、蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主の大内定綱に対して田村氏の傘下に戻るよう命じたが、定綱はこの命令を拒否。これに対して政宗は天正同年4月に大内氏の討伐命令を下す。

大内定綱は蘆名盛隆の未亡人(輝宗の妹 彦姫、亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、5月に政宗は突如として蘆名領に侵攻を開始した(関柴合戦)
ところが関柴合戦に失敗した政宗は、今度は定綱とその姻戚である二本松城主の畠山義継へ攻撃を加える。
こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗が築いた南奥羽の外交秩序が破綻の危機を迎えることになる。

10月に畠山義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は義継に対し苛烈な態度で臨み、所領を大幅に削減すると宣告した。しかし調停にあたった輝宗が政宗の決定に対して難色を示したため、政宗は処分の軽減を決定したという。また、処分の軽減にあたり、畠山義継が輝宗に依頼したともいわれている。
畠山義継は、調停に謝意を表すべく、10月8日に宮森城に滞在していた輝宗を訪れた。しかし城門まで見送りに来た輝宗に突如翻って白刃を突きつけ拉致、二本松城に戻ろうとした。

輝宗の拉致について、一説によれば宮森城に訪れた畠山義継が館内で刀を研ぐ兵士を見て態度を変えた、ともいわれている。

そして、政宗が輝宗を拉致した義継に追いついたのは、付近に畠山義継供養塔がある阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりと伝わっている。この時、政宗の命令によって銃撃が行われ、その際に義継も輝宗も死亡したといわれている。
また、最期を悟った義継が輝宗を殺害したあとに割腹したという説、囚われの身になった輝宗が息子の覇道にキズがつくことを潔しとせずに「伊達の家名を汚すことなかれ」と叫び自ら命を絶ったという説もあり、正しい最期については定かではない(粟之巣の変事)

享年42。

略年表

  • 1544年(天文13年)、誕生。
  • 1555年(天文24年)、13代将軍足利義輝から偏諱を受け、総次郎輝宗と名乗る。
  • 1564年(永禄7年)、家督を継いで伊達家第16代当主に。
  • 1570年(永禄13年)、中野宗時を追放、鬼庭良直を評定役に抜擢するなど家中の統制を図る。
  • 1578年(天正6年)、越後・上杉家のお家騒動「御館の乱」に景虎方として参戦。
  • 1579年(天正7年)、田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎える。
  • 1581年(天正9年)、新発田重家の反乱の際、蘆名盛隆とともに重家を支援。
  • 1583年(天正11年)、丸森城を奪還。
  • 1584年(天正12年)、金山城を攻略。相馬氏と和平を結ぶ。同年、政宗に家督を譲って隠居。
  • 1585年(天正13年)、畠山義継に拉致され、死去。


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