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3分でわかる伊達政宗の生涯

伊達政宗の肖像画
野心に満ちた策謀家、独眼竜・伊達政宗の生涯とは?

名門伊達氏の嫡男として誕生

伊達政宗永禄10年(1567年)の8月3日、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として誕生した。幼名を梵天丸という。

伊達氏は鎌倉時代から続く名門であるが、奥州に古くから伝わる家柄同士は婚姻関係を結ぶことが多く、政宗の母・義姫も最上氏当主・最上義守の娘で最上義光の妹であった。

元亀2年(1571年)、政宗は5歳のころ、天然痘を患って右目を失明し隻眼となる。
独眼竜と呼ばれるようになったのは江戸時代後期からであり、政宗は自身の隻眼を嫌っていたようで、隻眼で描かれた肖像画は少ない。 伊達氏の中には弟の小次郎を擁立しようとする勢力があったといわれるが、輝宗は早くから政宗に家督を継がせることを決めていたという。そのため、天正5年(1577年)の11月15日に10歳で元服させ、伊達氏中興の祖といわれる9代目当主の伊達政宗にあやかり、同じように "政宗" と名乗らせている。なお、伊達家では、それまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、このころには織田信長が足利義昭を京から追放していたため、義昭からの一字拝領は求めていない。

天正7年(1579年)、政宗は13歳で三春城主・田村清顕の娘で1歳年下の愛姫を正室に迎え、2年後の天正9年(1581年)の4月に相馬氏との合戦で初陣を飾っている。そして、天正12年(1584年)の10月、父・輝宗の隠居により、政宗は伊達氏第17代当主となった。このとき、政宗は若さを理由に辞退しようとしたが、家臣たちから推される形で家督を譲り受けたとされている。

父殺しから奥州南部平定まで

天正11年(1583年)、田村清顕の旗下に属していた小浜城主・大内定綱は、田村氏と対立する蘆名盛隆の支援を受けて田村領の百目木城を攻め、田村氏からの独立を果たす。定綱は引き続き伊達氏への奉公を表明したのだが、清顕を岳父とする政宗はこれを許さず、天正13年(1585年)に大内領小手森城に攻め込み、見せしめとして撫で斬りを行い、城内を皆殺しにした。

さらに、政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主・畠山義継に対しても攻撃を行い、義継は政宗に降伏を申し出たものの許されず、隠居していた輝宗の取りなしによってわずかな所領のみを残されることとなった。

政宗の苛烈な仕打ちにより、義継は政宗を深く恨むようになった。その結果、義継は、取りなしの礼として宮森城の輝宗を訪れた際に、輝宗を拉致して二本松城へと連れ去ろうとした。このときに輝宗は義継とともに死亡するのだが、一説によると、鷹狩に出ていた政宗が手勢を率いて義継に追いつき、輝宗もろともひとり残らず射殺してしまったともいわれている。その後、政宗は、義継の遺体を斬り刻み、藤藁でつなぎ合わせて小浜城下にさらしたという。

輝宗の初七日が終わると、政宗は、弔い合戦と称して約1万3千の兵を率いて二本松城に攻撃を開始する。しかし、二本松城を救援するために佐竹氏および蘆名氏を中心とする諸大名が約3万もの連合軍を集結させ、安達郡人取橋で政宗を迎え撃った。
伊達氏は、政宗が家督相続してから、近隣勢力との関係を急速に悪化させていたのである。

戦いは数で勝る連合軍の攻勢で進み、政宗は本陣まで攻め込まれ矢弾を受けるまでとなった。伊達氏の宿将・鬼庭良直が殿をつとめ、命と引き換えに政宗を逃したが、戦いは連合軍の勝利となった。しかし、勝利の中で、佐竹氏の小野崎義昌(佐竹義重の叔父)が家臣に刺殺される事件が発生したのだ。 さらに、佐竹本国に後北条方が攻め寄せるとの報が入ったため、連合軍は優勢のままに撤退している。この不可解な撤退は政宗の裏工作によるものと疑われ、敗戦にもかかわらず、政宗は恐れられる結果となったという。

天正15年(1587年)12月、豊臣秀吉が関東奥羽の諸大名に対して惣無事令を発令し、私戦を禁止した。これは特に後北条氏と伊達氏を意識してのものであったが、政宗は無視して戦争を続けている。

天正16年(1588年)2月、政宗は大崎氏の内紛に介入して勢力拡大を試みるが、大崎氏から妻を迎えていた黒川晴氏の離反によって敗北する。そして、やはり大崎氏から妻を迎えていた最上義光の参戦により、伊達領各地が最上勢に攻め落とされてしまう。さらに、これに乗じた蘆名氏、相馬氏の進行も受けることになる。
窮地に陥った政宗だが、義光の妹である母・義姫の懇願により叔父・義光との停戦がなされ、つらくもこれを逃れることに成功する。体制を立て直した政宗は蘆名義広を攻めた。

蘆名氏では天正12年(1584年)に芦名隆盛が暗殺され、わずか生後1カ月で当主となった亀王丸も3歳で天然痘により死去したのである。天正15年(1587年)に佐竹義弘の子で隆盛の養女と結婚した義広が当主となっていた。義広は若年だったため、他家からの養子であるため家臣を掌握できずにおり、政宗はこれにつけ込んだのである。

政宗の目論見どおりに蘆名氏からは離反が相次ぎ、政宗は摺上原の戦いに勝利した。義広は居城である黒川城(会津城)を放棄して実家の佐竹氏に逃れ、蘆名氏は滅亡する。蘆名氏の滅亡を機に、佐竹氏側の武将が次々と政宗に服属し、政宗に従わなかった二階堂氏らも攻められて、政宗は若くして南奥州の覇権を握ることとなった。

豊臣政権下での政宗

政宗が南奥州で戦っていたころ、中央では秀吉による天下統一が進んでおり、天正18年(1590年)には北条氏が滅亡となった小田原征伐が実行されることとなった。

小田原遅参の責

伊達と北条は父・輝宗の時代から同盟関係にあったため、政宗は秀吉と戦うべきか直前まで迷っていたらしい。しかし、20万の大軍を率いる秀吉には抗えず、結局は秀吉に服属することにした。

だが、惣無事令に違反したうえに小田原に遅参した政宗は、会津領を秀吉に没収され、ほぼ家督相続時からの所領までに減封。ここに政宗の南奥州制覇は振り出しに戻ってしまうのであった。なお、遅参した政宗が秀吉と初めて対面したとき、甲冑の上に白い喪服を着る「死に装束」姿だったというエピソードは有名だ。

葛西大崎一揆の仕掛人か?

同年7月に小田原征伐を終えた秀吉は、まもなく奥州仕置を行なうが、10月には改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣らが葛西大崎一揆を引き起こすことに。これに対して秀吉は、政宗と会津領を治めることになった蒲生氏郷を派遣して鎮圧にあたらせた。

ところが、ここで大きな問題が起こった。というのも、政宗の家臣が氏郷の陣を訪れてきて「一揆を扇動しているのは政宗」だと訴え出てきて、さらに政宗の祐筆(書記)も政宗一揆勢に宛てた密書を持参してきたのである。
このほか、政宗勢の鉄砲が空砲だという報告もあった。この報告を受けた秀吉は、一揆は政宗がその鎮圧を手柄として勢力を拡大するための自作自演だと疑った。その後、翌天正19年(1591年)2月に、政宗は京に呼び出されて秀吉から詰問されるも、「密書は偽造されたもの」と主張してなんとか許され、再び一揆の鎮圧へと取りかかることに。

苦戦の末に一揆の鎮圧に成功した政宗だが、実際に一揆を扇動したかどうかはハッキリしていない。あくまでも有力な見解として、没収された所領の失地回復の手段に一揆を扇動した、ということらしい。なお、政宗は桃生郡須江山に一揆の主だった者らを集めて皆殺しにしているが、この皆殺しは口封じのために行われたとみられている。

一揆鎮圧後、政宗が一揆を扇動したとみなされたからか、政宗の所領の一部である40万石は没収されて氏郷へ与えられることになった。代わりに一揆による荒廃のひどい葛西・大崎30万石が政宗に与えられている。
これにより、政宗の所領は困窮して重臣の出奔が相次ぐこととなる。豊臣政権での政宗は、南奥州の覇者から一転して、不遇の立場に追いやられていったのである。

慶長出羽合戦で家康の不信を買う

天下人になった秀吉は、生前に諸大名が許可なく結婚することを禁止していた。しかし、慶長3年(1599年)にその秀吉が死亡すると、豊臣五大老の筆頭にあった徳川家康は、自らが秀吉の義弟にあたることと秀吉の跡継ぎである秀頼が幼いことを利用して、積極的に諸大名との婚姻を進めていくことになる。

その婚姻には、家康の六男である松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)の婚姻も含まれていた。なお、政宗は愛姫と結婚して長女を授かったとき、男子名である「五郎八」としか名前を考えていなかったため、そのまま五郎八姫と命名したという。

こうした中、慶長5年(1600年)の春には、豊臣政権内部で権力を強化していた家康と、五大老の一人であり、蒲生氏郷の死後に会津を治めていた上杉景勝との関係が悪化。

そして家康が東へ向けて上杉征伐のために進軍を開始すると、家康から上杉領への攻撃命令を受けていた政宗は、同年7月に上杉方の白石城を攻略するなどしている。(白石城の戦い)

露に消えた「百万石のお墨付き」

一方、上杉征伐の隙に西軍率いる石田三成が挙兵したことで関ヶ原合戦が勃発。このとき下野国小山にまで至っていた家康率いる東軍は、兵を引き返して決戦に臨むことになる。このとき政宗は、家康から「百万石のお墨付き」、すなわち、「政宗が東軍に味方して勝利した際には、かつて伊達氏が秀吉に没収された会津領の自力回復を許す」という特権を与えられていたらしい。

家康のお墨付きを得た政宗は、何度も上杉領を攻めるのだが、福島城主・本庄繁長によって退けられ、所領の回復はほとんど果たせなかった。しかも、南部氏の領内で発生した岩崎一揆が政宗の扇動によるものと発覚してしまう。南部氏は家康について上杉征伐に参加していたのだが、かねてから政宗は南部氏領をねらっており、妨害工作を仕掛けていたのだった。

結局政宗は、関ヶ原で東軍に加担したにもかかわらず、一揆の扇動の発覚によって家康の不信を招き、「百万石のお墨付き」は反故にされ、これといった恩賞を与えられることがなかった。なお、この一揆の際にも、政宗は自らが扇動した和賀忠親を暗殺し、口封じを行ったとされている。

仙台では為政者として大活躍

徳川幕府が開かれて太平の世となると、政宗はこれまでの野心に満ちた策謀家から一転して、優れた為政者へと変貌を遂げる。

関ヶ原の戦いが終わると、政宗は仙台藩の初代藩主となり、居城を岩手山城から仙台城へと移した。青葉山に位置する仙台城は、天然の要害ではあったものの、その城下は未整備だったため、政宗は開拓して治水工事に取り組み、s城下町を開発していったのである。また、文化的にも技師や大工の招聘を行って、後の国宝となる大崎八幡宮などの優れた建造物を建築していった。

慶長16年(1611年)には、仙台を訪れたスペインの探検家が、仙台城から見下ろした城下町の様子を「大きさは江戸と同じで家屋の構造はこれに勝る」と報告している。さらに、政宗は石巻港を設けて、寛永9年(1632年)からは仙台藩で収穫された仙台米が海路で江戸に運ばれるようになった。政宗の目は海外にもおよんでおり、仙台藩とエスパーニャ(スペイン)の通商を企図したのである。

慶長18年(1613年)に仙台藩内でガレオン船を建造、支倉常長ら180余人を慶長遣欧使節としてメキシコ、エスパーニャ、ローマへと派遣している。

大阪の陣で真田と対決!

その後、政宗は徳川方として大阪の陣に参加するが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における道明寺の戦いで、またもやインパクトのある行動を残している。当初は豊臣方の有力な武将である後藤又兵衛を自刃に追いやるなどの活躍をしたのだが、救援に向かってきた真田幸村隊と交戦となって反撃を受けると後退。その後、政宗は味方の水野勝成から真田隊への再攻撃を要請されてもことごとく断っており、幸村からは「関東勢は100万いても男は1人もいない」と嘲笑されたという。さらにこのときの戦闘中に、水野隊を味方討ちしたともいう。

また、最終決戦となった天王寺の戦いでは、一説に徳川方の神保相茂隊300名を味方討ちして全滅させたともいう。

晩年の政宗は?

徳川家と必ずしも良好な関係ではなかった政宗だが、徳川家光からは「伊達の親父殿」として慕われた。政宗も家光の支援者となり、家光が参勤交代を発表した際には「背くものがあれば討伐を申し付けるよう」申し出て、諸大名を黙らせたという。参勤交代は諸大名への負担が大きいものであったが、晩年の政宗は、一言で周囲を押さえつけるまでの発言力を手にしていたのである。

為政者として仙台藩をおおいに発展させ、副将軍と称されるまでの発言力を得た政宗だが、寛永13年(1636年)の5月24日、参勤交代で江戸に滞在中に食道の病により満68歳で没した。死の直前には愛姫からの見舞いの申し出も断り、妻子にも死に顔をみせずに見栄を貫いたと伝わる。


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