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【名場面:伊達政宗】家康の計らいで転封を逃れる(1595年)

※『名将言行録』より

文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の謀反のうわさがあったとき、政宗もこれに同調しているといううわさがあった。これを知った秀吉が怒って政宗に伊予国への転封を命じたときのことである。

--家康の居所にて--

政宗は伊達上野ほか1人を遣わし、家康に泣きついた。

徳川家康

どのような用で?

徳川家康アイコン
家臣アイコン

伊達上野

はっ!実は伊予国へ転封の件を仰せつけられました。まさに伊達家の浮沈に関わることでございます。我が主は「貴殿のご賢慮を仰ぎ奉るほかございませぬゆえ、なにとぞよろしくお願い申し上げます。」とのことでございます。

徳川家康

ほう、それは難儀ですな・・。

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そして家康は2人の使いに茶飯を賜ったが、あせって急ぐ伊達上野が言った。

家臣アイコン

伊達上野

我ら主・政宗がさぞや待ち遠しく思っているところでございまするゆで、早く帰って貴殿のご返事を申し聞かせたく思うのですが・・・。

これを聞くと、家康は大声で言った。

徳川家康

そなたらの主・越前守は表面は強そうに見えるが、実のところは腰ぬけで芯がしっかりせぬからそのように狼狽するのだ!

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家臣アイコン

伊達上野

!!!

そして、さらに続けて家康は言った。

徳川家康

四国へ行き、魚の餌になるか、ここで死んでしまうのがよいか、よくよく分別すべきところだ。

徳川家康アイコン

家康は重ねて、秀吉からの裁定があったときの返事を2人に色々と教え、2人は帰っていった。

そして家康は秀吉のところへすぐに向かい、また、政宗のところへは秀吉からの使者がきて、承諾の返答と伊予へ向かう事を催促したのであった。

--政宗の居所にて--

秀吉の遣いの者が政宗の宿所へ行ってみると、そこの門前には弓・鉄砲・槍・長刀をもった者たちが居並び、すぐにでも打ってでようとする有様であった。政宗は秀吉からの使者であることを聞いて、無刀で出迎えて座に案内し、話を聞くと涙をはらはらと流しながら言った。

伊達政宗アイコン

政宗

上様のご威勢ほど世にありがたいものはございません。また、お上のご勘気をこうむるほどの不幸もありません。今そう思いました。それがしは、たとえ首をはねられようとも異議はございません。ましてや伊予を賜っての国替になんの異存もございません。

伊達政宗アイコン

政宗

しかし、譜代の下々の者はきっぱりと訴え申しております。「なぜ数十代のご領を離れ、他国に流浪することがあろうか。すみやかにここで腹を切られ、我らは一人も生きてこの地を去り、他人に渡す考えはない。」と。しきりに自害を勧めるので、色々説得をしても家臣らは一向に同意せぬのでございます。

伊達政宗アイコン

政宗

ご覧のように狼藉がましいことでありますが、お上からすっかりご勘当の身となった今となっては数十代の家人さえ、それがしの下知に耳を貸さぬ有様となりましたことも思えば仕方なき事でございます。

---秀吉の居所---

秀吉の使者

かくかくしかじか・・・と申しておりました。

家臣アイコン

豊臣秀吉

ううむ・・・。

豊臣秀吉アイコン

こうして使者は政宗の言い分を持ち帰って秀吉に申し上げたが、その場にちょうどいた家康が横から言った。

徳川家康

いかにもそのように承っております。政宗1人が命に背いて旧領を去らぬというのであれば、それがしに仰せつけられれば、すぐに政宗のいる宿に押し寄せ、踏みつぶす事はたやすいことにございます。

徳川家康アイコン

豊臣秀吉

うむ・・・。

豊臣秀吉アイコン

徳川家康

このたびこちらへ供をしてきた千にも足らぬ小勢でさえ、家人らがそう思っているとすれば、国に残っている多勢の者らが国を退去するとはとても思えませぬ。もし家人どもを追い払うご賢慮がおありでしたら、それがしにお任せくだされ。

徳川家康アイコン

豊臣秀吉

ぐくっ!!

豊臣秀吉アイコン

徳川家康

・・・しかしながら、異代の所領を没収なさることは、その家人どもの愁訴する心もかわいそうに存じますゆえ、ここはひとつ、曲げてお許しなさるべきとも思いますが。。

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豊臣秀吉

・・・あいわかった。この一件はおぬしに任せようぞ。

豊臣秀吉アイコン

こうして政宗の国替えは結局なかったことになり、勘当も許されたという。


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