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「有田中井手の戦い」元就が一躍有名に!?西国の桶狭間。
──永正14年(1517年)

有田中井手の戦いは安芸国(現在の広島県の西部分)で起こった毛利元就の名を一躍有名にした戦いである。

合戦の背景

合戦が起きた背景には、安芸武田氏の7代当主である武田元繁が服属していた大内氏の当主・大内義興が将軍を奉じて京都に上洛する際に彼に従ったため、大内氏の主力が安芸国からいなくなったという事情があった。
大内氏が留守の安芸国では厳島神社の後継者争いが勃発したり、出雲の尼子経久が大内家に協力していた国人領主達を寝返らせるなど様々な騒乱が起こったため、大内義興は武田元繁を安芸国に帰らせて、この混乱を収束させようとした。 義興はこの時に自分の養女を元繁に嫁がせている。しかし、元繁は帰国するとその妻と離別し、尼子経久の弟の娘を妻に迎え、尼子氏の支援を受けて大内氏に反乱を開始した。

元繁はまず厳島神社の後継者争いに介入し、大内方である大野河内城を攻め落とした。次に己斐城を攻め始めるが、こちらは数ヶ月に亘り包囲を続けても攻め落とせなかった。対する義興は武田方の山県氏の一族を牽制するために、毛利興元と吉川元経に対して山県郡有田への出陣を命じる。

毛利と吉川の連合軍が有田城を落とすと元繁は己斐城の包囲を解き、軍勢を動かして有田城の奪還を目指すが失敗する。 その後も元繁と毛利・吉川連合軍は対峙を続けるが、永正13年になると毛利興元が病死したため、幼い幸松丸が毛利氏の当主となり、叔父の毛利元就がその後見役となった。この時元就はまだ若く、毛利家のこの混乱を好機とみた元繁は有田城の奪還を目指し、再び動き始める。

合戦の経過

永正14年(1517年)の2月、元繁が山県郡の今田城に進出して国人衆に糾合を呼びかけると、三入高松城の城主・熊谷元直、八木城の城主・香川行景、己斐城の城主・己斐宗瑞らが馳せ参じ、兵力は約5千まで膨れ上がった。

10月、元繁は毛利・吉川の勢力下にある有田城を包囲する。この時の有田城の城主は大内義隆の娘を正室とする小田信忠だった。 武田方が有田城をなかなか攻め落とせないなか、武田軍の熊谷元直は有田城から約6キロメートルほどの場所にある毛利家の城・多治比猿掛城攻めを進言し、10月21日に多治比の民家などに放火を行う。すると、多治比猿掛城の城主であった毛利元就が150騎の寡兵を率いて城を打って出、熊谷勢を退かせた。その後、元就は吉田郡山城に救援を要請し、相合元綱、桂元澄、渡部勝、福原貞俊らを主力とする毛利方700騎と吉川方の宮庄経友が率いる300騎を援軍として集める。

【有田中井手の戦い 有田城ほか周辺マップ】


10月22日、毛利・吉川の連合軍は有田へ進み、武田軍の熊谷元直と対峙した。元直は連合軍の兵が少数とみると正面から攻撃を行い、前線で兵を叱咤するなど連合軍を侮る行為を始めた。しかしその最中、元直は額を矢で射抜かれ落馬し、宮庄経友によって討ち取られてしまう。

熊谷勢は潰走し、このことを知った武田元繁は有田城の包囲に伴繁清、品川信定と約700の兵を残して、自ら主力軍を率い連合軍に攻撃を始める。武田軍は兵を五段構えにし、鶴翼の陣形で連合軍を包囲しようとした。この時になると連合軍は又打川まで進出し、有田城で篭城していた小田信忠らの兵も武田軍の背後を狙っていたが、数が多い武田軍は連合軍を後退させ始めた。

元就は連合軍の兵を励ましながらねばっていたが、なかなか戦況は進まない。武田元繁はこの遅々として進まぬ状況に激昂して、最前線に出るために馬に乗って又打川を越えようとした。
それを見た元就は兵に弓での一斉射撃を命じる。矢を受けた元繁は馬から又打川へ転落し、毛利方の井上光政により討ち取られた。 武田軍は大将を失って総崩れとなり、今田城に撤退する。今田城では武田家の家臣である伴繁清・品川信定が、退却してから機会を窺って反撃することを提案したが、香川行景・己斐宗瑞は再戦を主張して譲らない。

翌10月23日、香川・己斐は兵を率いて毛利軍に突撃し、討ち死にした。

戦後

その後、安芸武田氏はこの敗北をきっかけに衰退していく。武田家は嫡子の武田光和が家督を継いだが、熊谷信直や香川光影などの重臣が離反し、毛利氏に従うようになる。

光和は毛利氏への総攻めや他の戦でも奮闘するが力及ばず、天文3年(1534年)に病没した。これにより安芸武田氏の血統は途絶え、若狭武田家より武田信実を養子に迎えたものの、天文10年(1541年)には元就に銀山城を攻め落とされて衰退することに。
一方、有田中井手の戦いが初陣であった毛利元就の名はその戦果によりたちまち有名になり、彼は幸松丸が夭折すると毛利家の当主となった。この戦いはのちに西の桶狭間と呼ばれるようにもなり、これを機に安芸国内の勢力図は大きく変化していくこととなる。


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